1デナリの謎
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の授業を受けているうちに、なんだかおかしな気分になってきた。プロテスタントの倫理感による行動が、あまりに資本主義社会における労働者の姿として、適合し過ぎているからだ。宗教に縛られ、神の罰を恐れ、日曜日も返上して働いたらしいプロテスタントの姿とは、資本主義社会における雇用主にとって、どれほど都合のいい存在であっただろうかと思えてくる。授業を聴いているうちに、プロテスタントという信仰は、もしかしたら資本主義のために人工的に作られた宗教だったのではないのだろうかとさえ、思えてきた。
授業の合間に疑問が1つ、浮上した。聖書の中には主人から1デナリを預かった下僕が、主人が帰るまでに、その1デナリのお金をずっと、大切にしまっておいたがために、主人に叱られるという話が出てくる。その話がもしかしたら、カトリックとプロテスタントで、まったく違うように解釈されているのではないかという点だ。
カトリックでは主人に叱られた理由を、「その下僕が、神様から自分に与えられた才能を生かそうとしなかったため」と解していて、プロテスタントでは「その下僕は、預かったお金を貨殖しようとしなかったため」と解している風だ。つまりカトリックでは人間の能力を生かす労働を単純に奨励し、プロテスタントでは労働を奨励するのと同時に、資産運用を含めた、貨幣の自己増殖による獲得も奨励していた気配がある。だが労働と貨幣の自己増殖はまったく別物であり、この解釈の違いは経済の中に大変な違いを生み出して行く。
プロテスタントという信仰は、カトリックによって禁止されていた金利や、労働を利用した配当金、株式売買差益という不労所得を、社会に公認させたのではないのだろうか? 貨幣の自己増殖を善として社会に認めさせ、そうすれば資本主義は猛烈に発展するはずだ。
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