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2009年11月

本 : 「パン屋のお金とカジノのお金はどう違う?」

 エンデの遺言について知りたいと思ったら、一番最初の情報源としては、この本が良いと思います。経済について何も知らないまま読んでも、かなり身近なお話として、わかりやすく説明されています。取り上げられている問題も広いので、いろいろなことに視点が広がります。

 ただお金の話だけでなく、エンデの思想的な話になると、難しいです。

 私はこの本を読んでみてすごく良かったと思うのは、著者の廣田裕之さんが、ほんの少しだけですが「株式会社」という話題に触れていることです。

私はこの本に出会わなければ、私たちの社会にこんなにも浸透している、株式会社という仕組みについて、まったく注意をはらわなかったと思います。

株式会社は、資本主義を理解するための出発点です。ここから「時間どろぼう」を探しに行く手がかりが見つかります。

最後の方は、著者である廣田裕之さんの専門分野である、地域通貨の情報が多くなります。お金にたいする見方が固まる前に、地域通貨という新しいお金の在り方に出会うので、はじめは難しく感じます。

でもやはりエンデが私たちに伝えたかったメッセージを、一番やさしく伝えてくれている本であることは、間違いありません。

 表紙もちょっぴりあやしくて、どことなく可愛いいです。ぜひよく、見てみて下さい。

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005.「モモ」というなぞなぞの答えは出た?

 ところでこのエンデが遺していった「モモ」というなぞなぞの答えなのですが、最近になって私は「もしかして、なぞなぞの答えを解いちゃった?!」と思ったのです。それで私が思いついた答えが本当にそうなのかどうか、誰かお金のことについてよく知っている人で、さらにまたなぞなぞが得意な人に尋ねてみたくてたまりません。

 私が「こうじゃないかな?」と思っている答えを先に、書きますね。

 「ええっ、答えを先に言われたらつまらない!」と思う人もいるかもしれません。

 でもだいじょうぶです。エンデのなぞなぞは、エンデの作品がひと言では説明できないのと同じぐらい、ひとつのなぞなぞが解けても、まだまだなぞなぞのような状態が続くからです。

 それに私が今「解けたかな?」と思っている答えだって、もしかしたらこの先にまた何か矛盾が見つかって、「やっぱり違っていた」となるかも知れません。先に言ってしまっても十分だいじょうぶです。なぞなぞはまだまだ、たっぷり楽しめます。

私が「解けた?!」と思っている答えは、こういうものです。それは…。

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004.「モモ」というなぞなぞを解く意味について

 「モモ」という物語が、単なる人間の時間について語られた物語ではなくて、私たちが生きている資本主義社会について語られた物語であるということになると、この物語は私たちの現実的な社会について、何か関係があるお話なのかな?という気もしてきます。

 というのは物語の中で少女モモは、人間の時間をぬすんでいる時間どろぼうと対決し、その戦いに勝って、ぬすまれていた人間の時間を解放しているからです。

 もしかしたら「モモ」の物語の中で描かれている、時間とお金の不思議なつながりを読み解くことで、私たちは、この数十年ますます激しさを増している、息もつけないような熾烈な競争社会から抜け出して、物語の中で描かれていたような、人間の時間がたっぷりとあって、みんなが楽しく暮らせる社会が作れるようになるのかも知れません。

 おもしろいことにエンデは「モモ」の物語のあとがきの場面で、とても不思議なことを書いています。

(引用始め)
 わたしが長い旅に出ているときのことでした(今でもその旅はまだ続いていますが)。ある夜、わたしは汽車でひとりのきみょうな乗客とおなじ車室にのりあわせました。きみょうと言ったのはほかでもありません。そのひとがおよそ年齢のさっぱりわからない人だったからです。
(引用終わり)

 エンデは「モモ」のお話を、このなぞめいた旅行者から聞いて書いたのだとしています。そしてこの人は、もっとなぞめいた言葉をエンデに言っていて、エンデはその言葉を読者に伝えたかったと言うのです。その言葉は本当に、とても不思議なものでした。

(引用始め)
 「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去に起こったことのように話しましましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。私にとっては、どちらでもそう大きな違いはありません。」
(引用終わり)

 エンデの世界はファンタジーの世界なので、私の印象にはたしかな根拠などありません。でも人間が、時間どろぼうにぬすまれていた時間を取りかえせるということが、未来のどこかで起こるとしても、おかしくないという気持ちがしませんか?

 そしてこの不思議ななぞなぞのヒントは、私たちがまだ一度も見たこともない、どこか世界の遠くにある、見知らぬ何かにあるのではなくて、私たちが毎日使っているお金と、時間の関係の中にあるかも知れないと思うのです。

(資料は岩波書店「モモ」ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳を使用しました。)

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この文章を書いている私のこと

 ところでこの文章を書いている私のことを、少し書きます。

 私は現在40代のまんなかあたりの「おばさん」です。独身で、仕事は派遣の事務員です。時々正社員になったこともありましたが、だいたい派遣のことが多いです。

 お金については、本当はキリギリス型の性格です。数年前までは、貯金の習慣がありませんでした。(!)「お金というのは使うためにある」と、思っていたかも知れません。

 日商簿記2級という資格を持っています。それから社会人大学生でもあります。

 20代から神さまを信じていて、しょっちゅう、毎日「世界人類が平和でありますように」というお祈りをしています。もう20年以上もそのお祈りをしているので、自然と「人間の世界は必ず平和になる」と信じています。神さまは、好きです。

 性格はおっとり型で、ちょっと現実離れした考え方をするところがあります。子どもの頃から、時々あまりにもまわりの人と違った考え方をしてしまうので、「私はもしかしたら宇宙人なのかも知れない」と心配になったことがあります。

 20代の頃から神さまにお祈りをしているせいか、時々直感が働きます。直感はたいがい便利です。自分にはわからないはずのことがわかったりします。ただ直感は時々、少しだけですが困ってしまうことも起こります。自分が知らないはずの何かがわかるのはいいのですが、どうしてそうなのかはわからないことが多いからです。

 これが例えば、「ある場所のどこそこにそれはある!」という直感ならば、すぐにその場所に行けば確かめられるので、問題はありません。でも直感の結果がたしかめられるまでに、何年も時間がかかるということも時々あります。

 「ミヒャエル・エンデが『エンデの遺言』をとおして言っていることは、正しいのだ」という直感があったのは、2007年の5月のことでした。それはものすごくはっきりとした直感で、「私はわかっている」というほどの強い感覚でした。

 ところがその後は例により「どうしてそうなのか?」は、さっぱりわからなかったのです。第一私は心理学を勉強している学生で、経済や社会については本当に知識がなかったので、お金の話なんてさっぱりわかりませんでした。

 自分の直感が正しいのかどうか確認するために、私は経済やお金について、自分で勉強するしかありませんでした。幸い私は独身なので、勉強をする時間がとれました。また派遣で働いていたので、お金と生活と時間はいつでも直接に、私の勉強の材料でした。

 私は「エンデの遺言」という、この不思議なお話がおもしろくてたまりません。絶対にこのなぞなぞのような不思議なお話を、きれいに解き明かしてみたいと思うのです。

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003.「モモ」という、お金と時間の不思議ななぞなぞ

 エンデの作品である「モモ」が、経済のことを意識して書かれたお話であることは、間違いありません。

 ヴェルナー・オンケンさんという経済学者は、「モモ」が経済の、それもお金についてのお話であることを見抜いた最初の人だそうです。オンケンさんは「経済学者のための『モモ』入門」という論文の中で、そのことについて書いています。

 オンケンさんの説明によると、「モモ」の物語の中に出てくる「時間どろぼう」というのは、金利生活者という人たちのことだと言うのです。そして「モモ」の物語の中に出てくる、時間をぬすまれていてとても忙しく、毎日を空しく暮らしている人々のあり様というのは、現代資本主義がもたらしたものだと言います。

 「時間どろぼう」という存在が金利生活者という人びとのことだというのは、正直に言ってよくわかりません。でも「時間どろぼう」に時間をぬすまれている人たちというのは、現代資本主義のせいだというのは、なんとなく私たちにもわかると思います。

毎日「速く、速く!」とせかされながら仕事をし、その日にできた仕事の量を測られて、「お前は遅い!」と注意され、仕事をクビにされてしまう人が、私たちの社会には存在します。たしかにいつでも私たちの社会は何から何まで、せかせかとした競争社会です。

 オンケンさんの説明によると、資本主義社会である私たちの社会がそのようなことになってしまっているのは、時間どろぼうが「人間から時間を盗み、それを貨幣の形で<凍ら>せ、生と死から時間を奪い取っている」からなのだそうです。

 オンケンさんの論文にはもっといろいろな、興味をひかれるような説明も書かれてあるのですが、私にはこれぐらいしか読み解けません。

 ところでまたしても、なぞなぞのようなことになっています。今度はオンケンさんがなぞなぞを出しているようにも見えてきます。ヒントは「金利生活者」、それから「現代資本主義」、「お金を凍らせる」というあたりです。オンケンさんの説明では、私たちの社会で使っているお金のシステムが、お金を凍らせる機能を持っているために、私たちの時間がお金の形で奪われ、どこかに凍らせられていて、そのために私たちはこんなに忙しいのだと言うのです。いったい私たちの時間とお金は、どこでどうつながって、私たちの気がつかない間に「どろぼう」されているのでしょう?

 このなぞなぞは、ちょっと手に負えないぐらい大きななぞなぞだという気もするのですが、なんだかとてもおもしそうだと思いませんか?

 お金なら、私たちは毎日、必ず使っています。このお金が「凍る」って、いったいどういうことなのでしょう?

(資料は「自由経済研究 第14号」/ゲゼル研究会編集、ぱる出版発行の中の、「経済学者のための『モモ』入門」を使用しました。)

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002.「エンデの遺言」をまだ知らない人へ

 ドイツの児童文学者、ミヒャエル・エンデは1995年に亡くなりました。ミヒャエル・エンデの名前は、たくさんの人が知っていると思います。「モモ」や「ジム・ボタンの機関車大旅行」、「はてしない物語」などの作品で有名な作家です。

 亡くなる1年半前、エンデは日本のNHKの取材に応じた、ある録音テープを残していました。それは私たちの社会における、「お金」のあり方について語ったものでした。その内容は1999年にテレビ番組として構成され、「エンデの遺言」というタイトルで放送されました。

(私たちの社会における)「問題の根源はお金にある」と、エンデは言ったそうです。

 この「問題の根源はお金にある」という意味は、「みんな、お金がない」とか、「お金持ちはずるい」とか、そういう意味ではありません。私たちが使っている「お金」というものそのものが、何か、私たちの社会をうまくいかないようにさせる、原因を持っているのではないか?という意味です。だから私たちはこの「お金」というものを、もっと人間が幸せになれるような仕組みに、作りなおした方がいいのではないか?と、エンデはそのようなことを言うのです。

 「エンデの遺言」が放送されたことにより、私たちが普通では知らなかったような、不思議なお金のことが、かなりたくさんの人に知られるようになりました。不思議なお金というのは、お金を持っているとどんどん使える金額が減っていくという「スタンプ貨幣」というお金とか、特定の地域や団体の間でだけ使える「地域通貨」というお金のことです。

 また「金利というのは、おかしくないか?」という疑問や、シルビオ・ゲゼルという経済学者の名前も知られるようになりました。そしてまたさらに驚いたことには、エンデの作品である、時間どろぼうと人間の女の子の戦いの物語「モモ」は、本当は経済のことを意識して書かれたお話だということも、知られるようになりました。

 これだけでも普通は、頭の中がいっぱいになってしまって、おでこに大きなクエスチョン・マークが浮かんでしまいそうな内容です。おまけに私たちが今までまったく疑問を持つこともなく使っていたお金とは、まったく常識はずれなお金が登場してきます。

 「エンデの遺言」はテレビで放送されて、たくさんの人に知られる機会を得ましたが、遺言を受け止めた普通の人たちのほとんどは、「何が何だか、わかったような、わからないような?」という状態になりました。

それで今だに、現実的には「世の中の少しの人しか知らないお話」となっています。

(資料:「エンデの遺言」NHK出版)

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001.「エンデの遺言」という不思議なお話

 「エンデの遺言」については、その存在を知っている人も多いでしょう。

 でもそれならば、「エンデの遺言」とは、いったいどういうことなのか、説明できる人はどれだけいるでしょう?

 ほとんどの人は、自分の言葉では説明できないと思います。そしてそれは当然です。なぜならエンデは、決して何かをはっきり断言したり、具体的ですじみちのたった説明はしていないからです。

 「エンデの遺言」は、まるでエンデのファンタジーの世界のように、いろいろなことがぼんやりと、断片的に、まとまることなく伝えられています。エンデの話が断片的なので、その話を聞いた方も、その断片から一部分だけを推測し、論理的な説明を考えて伝えることしかできません。そうするとせっかく縁あって「遺言」を聞いた方も、「遺言はちゃんと聞こえたものの、わかったような。わからないような?」となってしまい、エンデの遺言を実行することができません。

 「エンデの遺言」は、まるでエンデが遺した、人類にたいする大きななぞなぞのようです。遺言そのものが、まるでファンタジーの作品のようなのです。

 「エンデの遺言」は、私たちが生きている世界の経済について語ったものでした。エンデは私たちが生きている世界のことを心配したのです。このままでは私たちの世界に住んでいる未来の子どもたちは、とんでもない世界に住むことになってしまうと、エンデは地球の未来を気にしていました。そしてそうならないために、「私たちの社会の経済というものは、特に『お金』というものは、何かおかしくないか?」と、私たちの注意を促すように知らせてゆきました。それが「エンデの遺言」です。

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