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2010年2月

地球のお金論01/「地球型のお金」についての大きな誤解

 地球の人たちはお金について、とても大きな誤解をしています。

 地球型のお金(と、私は名づけていますが)は、社会に一定量の紙幣や硬貨を流し込んで、社会の中で、その紙幣や硬貨を渡したり、受け取ったりすることで、社会全体の生産物の交換を助けるようにできています。

 お金がこの形式をとっている場合、誰かがお金を使わずに貯め込んでしまうことは、社会に害を与えます。
 その反対に、誰もお金を手元に貯め込まず、持っているお金の中のできるだけ多くを使うようにすれば、その分社会全体で、生産物の交換が促進され、社会全体が豊かになります。

 地球のお金は、社会全体での管理が難しく、そのために地球ではいろいろなことが言われていますが、原理としてはそういうことです。
 
地球型のお金の場合には、お金をかき集め、お金を貯め込むことは、社会のためによくないことなのです。

 地球型のお金は長いこと、電子データではなく、紙や金属片と言った、目に見える形を持ち続けてきました。
 これは地球の科学技術が長い間未熟で、つい最近まで、電子データによるお金を作ることが難しかったために、しかたがなかったことですが、地球のお金はそのために、大きな誤解をされました。

 お金を貯め込む人が多い社会ほど、豊かな社会であると誤解をされたのです。

 地球型のお金の場合、社会全体のお金の量は有限です。そのような、お金の量に限界がある状態で、社会の多くの人がお金を自分の家の金庫にしまいこみ、何も買わずに置いておくと、社会全体のお金の中で、たくさんのお金がその働きを休んでしまい、社会全体の生産物の交換が停滞します。

 せっかく生産した生産物は売れなくなり、働く力を社会に提供できる人たちが、失業します。社会がそういう状態になっている時は、社会のどこかに大量のお金をしまいこみ、何も買わないでお金をしまいこんでいる人が存在しています。

 地球の人たちは、自分が生活に必要なものを買う時に、一時的にお金をとおして買うために、お金を手に入れることが、自分が豊かになることだと、思い違いをしてきました。

 実際にお金は、ものを買う力ではあるのですが、単なる力に過ぎず、実際のほしいものではないはずです。地球の人たちが良識ある方法で、自分がほしいものを手に入れる時、その人はお金を手放すのと同時に、自分がほしかったものを手に入れているはずです。

 そのようにして実際に自分が使うものを手に入れた時、その人は、自分が豊かになったことを実感します。社会の中での交換が成立して、社会の誰かが作ってくれた、自分のほしかったものが、自分のところに届いたのです。

 それが正しいお金の使い方です。

 お金を手放して、本当にほしかったものを手に入れれば入れるほど、その人は自分が豊かになったことを実感できます。

 意味もなくお金を貯め込むことではなく、手に入れたお金を手放し、「ものを買う力」を実際に使うことによって、その人は豊かになっていくのです。

 地球型のお金の場合は、社会全体で手放されるお金の量が多ければ多いほど、社会が発展し、豊かになります。その反対に社会全体で、貯め込まれたお金の量が多ければ多いほど、社会は全体として貧しくなります。

「ほしいものが手に入らない」という人が増えるのです。

 地球の人たちは、あり余るほどお金を持っている人を尊敬する傾向があるようですが、それは気がつかずに自分たちの首をしめています。

 あり余るほど、つまりもう買いたいものもないというほど、お金をかき集めてしまっている人が、さらにお金をかき集めるという行為は、意味もなく社会全体の生産物の交換を妨げています。あり余るほどお金を持っている人というのは、実は社会に害を与えているのです。

 その人が、ちゃんと買いたいものがあってお金を貯めているのであればいいのですが、もう買いたいものもないのにお金を貯めことは、社会のためによくないことなのです。

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いろいろな組織が株式会社です。

 「公的」という考え方を習ったのは、小学校4年生ぐらいの社会科の授業だったと思います。先生の説明はとてもわかりやすいものでした。教室の中を例にして、それぞれの生徒が自分の席のまわりの掃除をするという話をしたのです。

 「みんなが自分の席のまわりのお掃除をするとします。自分のまわりの席は自分が使っているのだから、自分がお掃除をするのは納得できます。それならば教室の後ろの方の広いスペースはどうですか?」。

 「自分の席からは、遠い」と言って、誰も掃除をしなければ、教室の後ろの方はきたなくなってしまいます。そうすると昼休みなど、遊びたくてもきたないし、結局みんなが困ります。

 こういう時は「みんなの場所」として、みんなでお掃除をするようにすれば、解決できます。ここでいう「みんなの」が、「公的」です。

 「誰かのもの」ではなくて、「みんなのもの」。
 
「自分のもの」ではなくて、「みんなのもの」。
 
大人の言葉では「私的」と「公的」です。

 先生の説明はとてもわかりやすかったと思います。この時に私は「市役所」を理解し、図書館の本はみんなのものだという意味を理解し、税金というのは(本当は)「みんなのため」に使われるべきお金だということを理解したからです。

 「自分のもの」であれば、自分の好きなようにしてもいいけれど、「みんなのもの」は「みんなのため」に使わなくてはいけません。たとえばクラスのみんなから集めたお金は、「みんなのもの」なので、自分が買いたいマンガを買うのに使ったりしてはいけません。(…)

 市役所、警察、消防署などは公的機関です。

「公的」の反対は「私的」です。

 ところで小学校では、このあたりまでしか教わりません。

 「会社」については触れません。

 大人になると「公的」、「私的」という観点に、もう少し深い見方が加わります。「それは誰のもの?」ではなくて、「その行動は誰のため?」という見方です。

 税金は「みんなのため」に使われるべきものです。それが「みんなのため」ではなくて、特定の誰かのために使われたとなると、私たちは公平ではないと思い怒ります。

 政治はもちろん「みんなのため」に為されるべきものです。

 それならば企業の活動は、いったい誰のために為されるものでしょう?

 ここで言う企業とは、世の中で一般的な株式会社です。「民間」が出資する株式会社です。つまり公的でない存在によって経営される企業です。私企業とも言います。

 株式会社とは、通常は「株主のもの」であり、「株主の利益」のために経営される会社です。株主というのは、株を持っている人のことですから、決して社会の「みんな」ではありません。社会の一部の人です。株式会社は私的な存在です。

 株式会社の経営は、「社会のみんなのためではなく、社会の一部の人のために行われる」のです。

 株式会社は、実は私たちの社会にとても深く浸透しています。

 たとえば銀行や証券取引所は株式会社です。そしていろいろな新聞社や雑誌社、それから民放と呼ばれるテレビ局も株式会社です。

 これらの組織は、その仕事を見ていると一見「社会のみんなのため」のようですが、「誰のために、経営を行っているのか?」という点から言うと、「株主のため」に経営をしています。

「株主のため」というのは、株主が出資してくれたお金を増やしてあげるために経営をしているということです。

行っている事業はたしかに社会の多くの人に関わりますが、その事業を行う目的は、株主の利益のためです。

 そうなると、もしも株主の利益と、社会のみんなの利益が一致しない時、銀行、証券取引所、新聞社や雑誌社など、これらの企業はどのように行動をしたらいいのでしょう?

 私企業なのに、それでも社会のみんなのために行動する必要はあるのでしょうか?
 また出資してあげた株主は、株式会社のそういう行動を、喜んでくれるものなのでしょうか?

 株式会社の存在に気がつくことは、大切です。

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株式会社は2つの顔を持っています。

 もう20年以上前、私がはじめて就職して1年目ぐらいの時のことです。生まれつきの世間知らずな性格である私は、上司に質問をしたことがありました。

 「会社って、どうして大きくならなくちゃいけないんですか?」。

 私はこの時すでに、中小企業ながらも会社の中にどっぷりと漂っている「お金、お金、お金!」と叫び続けるかのような、株式会社が持っているお金に対する貪欲さにうんざりしていたのです。

 上司の答えはこういうものでした。

 「会社が大きくなれば、大きな仕事ができるでしょう? たとえば大きな製品を作ったりできるじゃない。飛行機とかそういうものは、小さい会社には作れないでしょう?」。

 その時は「ふーん、そういうものか」と思いました。

でもあとで考えてみて、「世の中には大きな製品だけではなくて、小さな製品とか、世の中に必要とする人が少ないけれど、望まれている製品というのもあるのではないか?」と思いました。

 たとえば大量生産される工場のパンよりも、小さなパン屋さんで焼かれるおいしいパンとか、それからケーキやプリン。女性の洋服なども、制服でもあるまいし、大量生産の似たようなデザインの服よりも、小さなお店で少しだけ作ってくれる洋服やアクセサリーの方が楽しいはずだと思ったのです。

 そう気がついた時には、上司はもう仕事に熱中していて、聞ける雰囲気ではなかったのですが…。

 良い子たちはおそらく学校で、こういう風に習うのではないかと思います。

 「会社というのは、みんなで力を合わせて仕事をして、社会に役立つものを作るところです。そうして儲けたお金で、みなさんも生きていけるのですよ」と、そういう感じです。

 もちろん私も、「そうなんだろうな」と思っていました。それで実際に就職して働き始めると、あまりに会社が従業員にケチん坊で、お給料が少ないように思うのですが、その理由も知らずに「世の中って、そういうものなのだろうな」と思いました。

 「株主」とか「配当」という言葉を耳にしたことがある労働者は多くても、その株主と、株式会社の中で働いている自分たちが、どういう関係にあるかを知っている人は本当に少ないのです。簿記の仕組みを知っていても、株式会社における株主の取り分と、労働者の取り分の関係に気がついている人は、ほとんどいません。

 経営者や財務部の部長は知っていても、株式会社の中で働いている人は、おもしろいほどそのことを知りません。もちろん以前の私も、株式会社が稼いだお金は全部、経営者と労働者の取り分になるのだと思っていました。

だから会社というのはたくさんお金を儲けなくてはいけないのだろうと思っていました。たくさん儲ければ、経営者と労働者の取り分が全体として大きくなるはずだと思っていたのです。

 世の中で働く労働者のほとんどは、一生をとおして「お金が家に余る」ということが、あまりありません。というのは収入となるお給料は低いので、稼いだお金のすべてを必要なものを買って、使ってしまうからです。一生をつうじてお金が余るということがないので、私の実家のように、「株を買ったことがない」という家庭も多いでしょう。

 株主という立場を体験し、株価の変動による差額や、年に2回もらえる配当金と、株式会社における儲けの関係に気がつくと、天地がひっくり変えるほど驚きます。

今までは社会のために働いているのだと思っていた会社というものが、一転して、株主のお金を増やしてあげるために働いていた会社であったことに気がつくからです。

 つまりもともとお金をたくさん持っている人たちのお金を、さらに増やしてあげるために、自分たちが働いていたという面が見えるのです。

 株式会社による生産が、社会に役立つことは事実です。
 でも株式会社の目的が、株主の財産であるお金を増やしてあげることにあるというのも、事実です。

 だから株式会社は善良ですが、でもやっぱりお金には貪欲なものなのです。

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株式会社と労働者の賃金

 資本主義社会の仕組みについて、少しずつ整理をしていきたいと思います。はじめは「株式会社」についての理解です。

 「株式会社」とは何か?ということを知ることは、とても大切です。これがわからないと、私たちには社会のいろいろな現象が不可解なことに思えます。
 株式会社とは何かがわかれば、世の中で起こっているいろいろなことが、かなりわかります。

 
例えば資本主義社会では、労働者は一生懸命働いても、どうももらっているお給料が十分でないような気持ちがするわけですが、その理由がわかるようになってきます。

 
株式会社の基本を整理します。

 株式会社とは、「新しい事業を始めたいけれど、お金がない」という人に、お金を出してあげる仕組みです。お金を出すのはもちろんお金持ちです。普通の貧乏人には出してあげるお金はないからです。

 いくらお金持ちでも、事業を始めたい人が計画している事業の規模によっては、お金持ちひとりでは、出しきれないことがあります。新しい事業はうまくいくかどうかはわかりませんので、ひとりであまりにお金を出し過ぎると、失敗した場合に大損をしてしまう危険も出てきます。それで複数のお金持ちが、「お金を出し合う」ということになってきます。

 お金を出す時の約束は「貸してあげる」のではなくて、「出資」です。出資というのは、「出してあげたお金は、別に同じ金額を返してくれなくてもかまわない。事業が失敗してしまった場合には、返してもらえなくてもしかたがないだろう。その代りもしも事業で儲かったら、その儲けはお金を出し合った比率に応じて、お金を出した人たちに払ってほしい」ということです。この時のお金が配当です。

 事業を始めたい人はそういう約束でお金を出してもらい、人を雇って事業を始めます。この時に雇われるのが労働者で、事業を始める人は経営者です。

 
これが株式会社を構成する3つの立場で、出資者と経営者と労働者です。

 
この時、お金があるのは出資者であり、経営者と労働者にはお金がありません。経営者と労働者は事業をとおして、お金をもらう必要があります。そうでないと経営者と労働者は生きられません。一方出資者は、もともとお金持ちです。

 出資するお金というのは、とりあえずは生活費には使わない、出資者にとっての「余っているお金」です。事業は成功するか失敗するかわからないのですから、生活費を使うわけには行きません。いちおう失っても、まだだいじょうぶというお金で出資します。

 この時の出資者と経営者と労働者の関係は次のとおりです。

 出資者は「自分のお金を経営者に預けて、お金を儲けてもらい、自分のお金をもっと増やしてもらう人」です。
 経営者は「出資者の財産であるお金を預かって事業を経営し、出資者のお金を増やしてあげて、その報酬をもらう人」です。
 労働者は「経営者に雇ってもらって働かせてもらい、生きていくのに必要なお金をもらう人」です。

 
経営者と労働者は一生懸命働いて事業を行います。出資者はお金を出した後は、時々会社を見張るぐらいです。

 
ある程度経営をして、お金を儲けます。
 
儲けたお金は、「さてどう分けるか?」です。

 労働者としては、「儲けたお金は、一生懸命働いた経営者と労働者で分けようよ♪」と言いたいところです。でも最初の約束はそうではありません。「儲けが出たら、出資をした人たちに分ける」のが約束です。

 そうすると労働者には、ちょっとした賃金しかあげられません。労働者の賃金を高くすると、事業の儲けというものが減ってしまいます。
 
そうなると出資者の取り分が減ってしまい、出資者のお金はあまり増えなくて、経営者もお金を増やしてあげた報酬が減ってしまいます。

 
労働者の賃金を上げることは、出資者にとっても経営者にとっても、喜ばしいことではないのです。

 というわけで、労働者はどれほど一生懸命働いても、あまりお金持ちにはなれません。もともとそういう仕組みなのです。

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次の大恐慌の時は「ウシロムキニススメ」

 ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる「さかさま小路」は、私たちが普段使っているお金への、強すぎる信頼のお話だと思います。

 私たちは普段「お金がなくては、生きていけない」と思っています。

でもよく考えてみて下さい。お金はそれ自体では、食べ物にもメモ用紙にも使えない、ただの紙っ切れです。せいぜい折り紙をしたらおもしろい♪という程度の紙です。

 そんなものがなくなったって、実際に私たちが食べるパンとかお肉とか野菜とか、それから衣類とか、家などが手に入れば、私たちはちゃんと生きていかれると思いませんか?

 お金という紙っ切れは、そういう実際に必要なものを手に入れるために、一時的に必要になるだけのものです。

 もしもそういう紙っ切れをとおさなくても、必要なものやほしいものがちゃんと手に入るのならば、わざわざそんな紙っ切れがなくなったところで、何もこわくなどないですよね?

 でもそれなのにお金がないと、私たちはとても困ってしまいます。どうしてこんな紙っ切れがないだけで、私たちは餓えてしまったり、命を絶ってしまうのでしょう?

 それはお金そのものが重要なのではなくて、お金が果たしている何かの役割が重要だからです。お金の形ではなくて、お金が果たしている役目の方が大切なのです。

 それならば世の中からお金が消えてしまった時は、私たちはほかの方法で、その役目を補えればいいと思いませんか?

 たとえばこういうことを、考えてみて下さい。

 自然災害による飢饉と、世界大恐慌は、何が違うのか?

 自然災害による飢饉では、本当に食べ物がなくなります。だからどんなお金持ちでも、お金で食べ物を買うことはできなくなります。なぜなら本当に、その地域に食べ物が存在しなくなり、買えなくなるからです。

 でも世界大恐慌の時は違いました。

人々はお店に商品があったのに、お金がなくて買うことができませんでした。お金が世の中から姿を消してしまったのです。お金が普段果たしていた役目が、果たされなくなってしまったのです。

でもその時、もしも人々が気づいていたら?

「大切なのは、お金じゃない。お金が果たしていた役目の方が大切だったんだ。それならばお金の代わりに、同じ役目を果たせる何かを考えればいいのだ」と気づいていたら?

 そのことに気がついた人たちは、地域通貨という代理のお金を使って、一時的にでも、危機を乗り越えたそうです。お金という拘束から自由になれたのです。

 人間はお金という紙っ切れがなくても生きられます。

 人間はお金という紙っ切れがなくても、食べ物があり、着るものがあり、住む家があれば、生きられます。問題は、みんなで交換が上手にできるかどうかです。

 世界大恐慌の時は、ほとんどの人がお金を信じ過ぎていたために、本当にひどいことになってしまいました。

 もしも未来にまた、同じようなことが起こりそうになったらその時は。

「ウシロムキニススメ!」です。

 私たちは「さかさま小路」を通りぬけるように、「大切なのはお金じゃない。みんなで作った野菜や食べ物や生産物だ。それからみんなの働く力だ。みんなの働く力さえあれば、みんなで作って交換して、なんとかなる」と呪文のように唱えながら。

「お金なんかなんだ! お金なんか、私たちをしばれない! 私たちは交換さえできれば生きられるんだ! みんなで方法を考えて、作ったものを上手に交換しよう!」。

 人間は今までお金ばっかりを見てきました。でもこれからはそうではなくて、ウシロムキに、ウシロムキに。

お金にしばられていた価値観を手放しながら、本当に人間を生かしてくれる食べ物や着る物や住む家の方を見ながら進んでいくのです。

 どうしたらせっかく生産した食べ物や着る物やお家を無駄にせずにすむだろう?
 どうしたら働ける人たちの力を、社会に生かしていけるだろう?
 
どうしたらみんなで生きられるだろう?

人間は、人間を傷つけるお金から、自由にならなくてはいけないのです。

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伊予柑です。

1月のある日、職業安定所に行く途中でいつもと違う道をとおったら、小さいスーパーがありました。


店頭に出ていた伊予柑が一つ69円でした。
安いと思います。

すぐにお店に入って買いました。

レジでお金を払った後、出口のそばにある張り紙に気がつきました。

「1月31日で閉店します。」


ショック!です。

最近、私が住んでいる地域では、閉店するお店がちらほら出てきています。


買ってきた伊予柑は、どうしてかすぐに食べる気にはならなくて、数日たってから食べました。

2月1日でした。

お店の人はきっと今頃、お店の中を片づけているかも知れないと思いました。


デフレがもう何年も続いています。

値下げ競争をすることで、小売店がずっと痛みを吸収していてくれたのだと思います。
でももう限界となってしまう小売店が出てきても、おかしくない。


一生懸命働いてきた人たちが、その商売をやめなくてはいけなくなってきています。


私たちの社会はもうじきに、世界大恐慌の時のように、お店にはたくさん商品が並びながら、誰もその商品を買えなくてなって、みんなが悲しいことになってしまうのだと思います。


その時までに、少しでも地域通貨などの知識が広まって、つらい思いをする人が少なくすめばいいと思います。

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「さかさま小路」があらわすもの

 ミヒャエル・エンデの「モモ」には、不思議な場面がいくつかあります。「さかさま小路」もそのひとつです。

 さかさま小路では、時間が逆向きに流れます。モモは、時間をつかさどる老人マイスター・ホラの住む家に行こうとしますが、向かい風に立ち向かうような感じになって、うまく進めません。強い圧力がかかってくるのです。そこに案内役のカメであるカシオペイアが「ウシロムキニススメ」と教えてくれます。言われたとおり、モモは後ろ向きになって歩いてみます。そうするとすっかりらくに進めるのです。

 「モモ」が経済について語っている物語であると知っている人には、この場面はとても印象的です。何か、意味があるのではないか?という気持ちにさせられるのです。

 実際に経済評論家の森野栄一さんは、この場面を経済における利子率のお話に重ねて説明をしています。貨幣に持ち越し費用が課される世界が、後ろ向きに進んでいる状態なのだそうです。

 経済の知識がないとこの説明は難しいのですが、専門家の見解ですので、おそらくそうなのだと思います。

 ただエンデの世界というのは、私たちが現実に生きている世界とは別次元の世界から、ひとかたまりの情報を、抽象画のように表現しているようなところがありますので、この場面の説明としては、ほかにもいろいろ、何か意味があるのではないか?と、私は以前から思っておりました。あまりにもこのモチーフがはっきりと、強く表れ過ぎているからです。おそらく経済の専門家だけでなく、普通の人たちにもよくわかる何かが表現されているという気がしていたのです。

 最近になってようやく、それはこのことではなかったか?と、思い当たるようになりました。

 さかさま小路が意味しているものを、現実の世界の事象として捉える時、とてもわかりやすい2つの見方が見つかります。

 1つは現在の私たちのような社会の場合に、お金を貯め込むことへの警告です。

 私たちの社会では、お金は中央銀行と普通の銀行だけしか発行することができません。社会におけるお金の量が限られているのです。

この限られている状態で、社会の多くの人々が「お金を貯めなくては、貯めなくては!」と言って、お金を貯め込んでしまうと、私たちの社会は、社会全体で貧しくなってしまうのです。理由は、社会の人たちが生産した財やサービスを交換するためのお金がなくなってしまうからです。

 お金がみんな財産になってしまい、世の中に流れていかないと、私たちはせっかく生産した農産物や工場の製品を売ったり買ったりすることができなくなります。景気が悪くなってしまうのです。このことは経済学者も認めています。

 その反対に私たちが、「お金を使わなきゃ、使わなきゃ!」と言って、どんどんお金を手放すと、私たちの社会は豊かになります。生産した農産物や製品が、どんどん売れて景気が良くなるからです。(ただし貧しい人が無理をしてまでお金を使う必要はありません。お金を余るほど持っている、豊かな人に使ってもらいましょう。)

 「お金を貯めなくては!」というのが、向かい風に向かって進んでいる状態です。その反対に「お金を使っちゃえ!」というのが、後ろ向きに進んでいる状態です。

 もう1つの意味は、お金を大切に思いすぎる価値観です。

 社会全体で「お金がなくては大変だ」とか、「お金がなくては生きていけない」と思えば思うほど、私たちはお金に振り回されてしまって、「世の中の役に立つものを生産する」という経済の本質を見失います。

 その反対に、「お金なんかなんだ!」とか「お金なんかただの紙っ切れじゃないか!」と気づけば気づくほど、私たちは経済の本質に気がつきます。

 「お金がないならほかの方法で、みんなで作った生産物や労働力を交換すればいい!」。

 そう気がついた時、私たちはマイスター・ホラが住む「どこにもない家」の前に立ちます。

 「お金から自由な経済」は、もう目の前です。

*資料は「自由経済研究第14号 エンデの遺産」(ぱる出版)より、「『モモ』、人間とその経済の、回復の物語」(森野榮一著)です。

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