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2010年3月

会計の本のとびら絵1/会計くまさん(その1)

最近、会計の本を読みます。

それは会計という、あまりにも自分に無理のある分野の勉強に挑戦したくなったというわけではなく、「エンデの遺言」を理解するのに、役に立つと感じるからです。

でも、会計というものはやはり難しいものだと思います。特に私のように、けっこうどんぶり勘定な性格の者にはややこしくて、すぐにわからなくなってしまいます。

そういう時はいったん本文からは目を離し、各章の間に出てくるとびら絵を見て、休憩します。

写真は「会計学はこう考える」(友岡賛著)という本のとびら絵です。イラストは市川智子さんというイラストレーターさんのものです。

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私はこのくまさんに、勝手に「会計くまさん」と名前をつけていて、イラストの場面をあれこれ思い、わからなくなってしまったがっかりをいやします。

このくまさんは、おそらく企業の価値を、認識し、測定するという、まさに会計の作業をしようとしていて、社屋と工場をじっと見つめているのだと思います。

「会計くまさん」はどことなく目が鋭くて、やはりとても頭が良さそうだと、このとびら絵を見るたびに思います。

会計は難しそうですが、「会計くまさん」はとても可愛いです♪

*著作権について、画像に問題があるようでしたら削除いたします。お手数で申し訳ありませんが、コメント欄よりお知らせいただけますようお願いいたします。

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ダブルむだづかい↓

コンビニに行ったら、入口のすぐそばに目を引かれるクリア・ファイルがありました。ペコちゃん、カールおじさん、グリコなど。
 なんだか楽しそうなファイルです。思わず目が光ってしまいます。

 グリコの「ひとつぶ300メートル」のクリア・ファイルがどうしてもほしい…。「おいしくてつよくなる」というコピーも、とても魅力的!

 値段を見たら、特定のお菓子を200円以上買った時にもらえる景品でした。店頭においてあるファイルがなくなり次第、終了です。

いいオトナがクリア・ファイルほしさに思わずお菓子を買ってしまいました。(!)
これが手に入れたお菓子と景品です。

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さて、自分の分を手に入れて、それからはっと気がつきました。

「ペコちゃんが好きなお友だちの分も買っておかなくちゃ!」。

 これがさらに手に入れてしまったお菓子と景品です。ファイルは表がペコちゃんで、裏はポコちゃんです。
こちらもおおいにカワイイ♪
お友だちにあげたら、喜んでくれること間違いナシです。

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お店を出てから気がつきました。

せっかくあんなに節約してたのに…!

でも買ってしまった以上、もう済んだことはしかたありません。

あとは大事に使うことにします♪

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リスクコントロールと沖縄のもあい(模合)

 「コーポレート・ガバナンス 経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行著)という本を読んでいたら、株式会社(有限責任で譲渡可能な株式の場合)という仕組みのメリットは、投資によるリスクを小分けすることで、リスクの高いプロジェクトへの出資を集められることにあるという記述がありました。

 著者はシェイクスピアの「ヴェニスの商人」に出てくるアントーニオの話を例に、リスクの高いプロジェクトに自分のほぼ全財産を投資してしまうことの危険性を説明していました。もしもアントーニオが株式会社の有限責任制度を活用して、複数のプロジェクトに小分けして投資をしていれば、というわけです。

 そのように考えてみると、たしかに株式会社という仕組みは、人間の「今持っているお金は失いたくない」という気持ちにたいして、「そういうことなら、お金を出してもいいよ」という誘因を与えることができる、賢い仕組みだと思います。実際にそのようにして、人間の社会は大きなプロジェクトを次々と実現してきたのだと思います。

 ただシルビオ・ゲゼルっぽい発想で、「お金で何かを買わずに、お金を長く持ち続けている人には、時間の経過とともに課税をしましょう」ということになると、このリスクの位置づけは逆転してしまうと思います。

でも今はちゃんとした、お金が価値を保蔵する社会の範囲内で考えてみたいと思います。

 株式会社という仕組みはたしかに、たくさんの人からお金を集める仕組みとしては、とても良い仕組みだと思います。

でも同時に問題があるように思うのは、プロジェクトの結果儲かったお金は、プロジェクトを実際に動かした人たちにはあまり配分されなくて、もともとお金を持っていて、お金を出してくれた人たちのところに返っていってしまうので、社会の格差が維持されたままになってしまうことではないかと、思います。

「なかなかうまくいかないねー♪」などと考えていたら、ふと同時並行で読んでいた本の中に、おもしろいお金の仕組みが出ていて、何か解決のヒントにならないかな?と、少し考えてしまいました。

 本は「カフーを待ちわびて」(原田マハ著)という恋愛小説です。沖縄を舞台にした小説で、私がおもしろいと思ったのは、沖縄地方の「もあい」(模合)という習慣です。

主人公の男性は、好きになった女性にプロポーズする結婚資金を集めるのに、もあいという仕組みを使うのです。もあいというのは、地域の仲間内で定期的に飲み会を開きながら、メンバーの中で一定額を全員から集め、集まったお金をメンバーの中の誰かに貸してあげる仕組みのようです。貸してあげるのは2か月間。

普段はひとり1万円程度を出すそうですが、この時は主人公の大勝負!なので、仲間たちがひとり10万円を出してあげていました。

 これは返済期限があるので、出資というわけではないのですが、なんとなくこういう感じの出資とか、あるいは融資の仕組みはできないかな?と思いました。

 もあいの特徴は、小さな地域内でのお金の融通なので、メンバーはお金を出してくれた人たちを裏切ることができないという、メンバー内の関係にあると思います。(実際には、メンバーがもあいのお金を持ち逃げしてしまうという事件も時々、沖縄では起こることがあると聞いたことがあります。)

 現代だと人の移動も激しいし、なかなかお金に関して人が信じ合うということは、難しいと思います。

 でも例えばネット上などで、あるプロジェクトの計画が発表されて、社長さんの顔やプロジェクトの概要やお金の動きが公開されていて、その上で小口の融資を募るというお金の集め方があったら?

例えば私だって3年間ぐらい使わない1万円程度なら出せるかも知れないし、返済と金利はお金ではない財やサービスでいいかな♪などと、小さなアイデアを思いました。

 ただ実際に「1万円出せるかな、どうかな?」と、今はちょっと悩ましい本音です。(笑)

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会計学がキライ!、でした。。。(>_<)

 15年ほど前に、日商簿記3級受験用の講座を受けました。そのあとすぐに2級の講座も受け、試験も受けました。そしてもともと考えナシな性格である私は気軽に、今度は1級の講座を受け始めました。

 日商簿記1級は、4種類の科目を勉強しなくてはいけませんでした。どれも私にはとても面倒でしんどい科目だったのですが、中でもとりわけ1科目、「何を言っているんだか、さっぱりわからない!」と、私を徹底的に泣かせた科目がありました。

 結局途中でギブアップして、1級の試験は受けませんでした。その時に私をうちのめした科目が、○○学という科目だったのですが、あまりにキライな科目だったので、○○学の、○○の部分がいったい何だったのかさえ、すぐに忘れてしまいました。

 最近気がつきましたが、それは「会計学」でした。

 ○○学の正しい名称をすっかり忘れていた私は、数年前に社会人大学で「会計学」を申し込んでしまいました。授業料を振り込みテキストを受け取った日、私は早くも「しまった!」と思いました。

 過去のことを思い出したというわけではなく、単にその時のテキストを2、3ページ見てみただけで、その科目が本当に私にとってしんどくて、おそらく宗教の修行のような科目になるということに気づいたからです。

 でも授業料を払ってしまった以上、しかたがありません。苦肉の策として、とにかくそのテキストをひたすら朗読して、少しでも支払ったお金のもとを取ろうと思いました。

 朗読は本当に大変でした。一生懸命声に出して読んでいるのですが、何を言っているのかさっぱりわかりません。おまけにそのテキストがまた漢字が多い!

 心の中で思いました。

「学生ゎ、会計学がわからないから、会計学を勉強するのだから、テキストゎ、学生にわからないように書くのではなくて、学生にもわかるように書いて下さい!(泣!)」。

 なんとか単位はもらえましたが、「これからはもうお金をもらっても、会計学の本なんか読まない!」と思いました。

 ところで3年ほど前に買った、慶應大学の友岡賛先生という方が書かれた「株式会社とは何か」という本はおもしろかったので、はじめはまったく気がつかずに読み始めてしまいました。全体をよく読み込んだわけではありませんでしたが、とても軽く自然に読めてしまったのです。

ところが友岡賛先生は会計学の先生でした。そしてその本も、実は会計の本でした。

 友岡賛先生の本は、言葉がわかりやすいのと、ものごとの行為者の意図などが、普通の人の感覚で、さっぱりと書かれてあるので、とてもわかりやすいのです。この本を読めばさすがに私でも、企業の目的はどうして利潤の追求なのかなど、いろいろなことがわかります。

 私はものごとの意味がわからないと、実務をしていてもあまり動けない性格なので、この本を読んだことで、自分がどれほどわかっていない経理事務員であったのかが、ものすごくよくわかりました。

 この本をきっかけに、著者のほかの本も読むようになりました。

 ちなみにこの本は、著者の別の本(「会計の時代だ」)に書かれてありましたが、本当は「株式会社とは何か」というタイトルではなかったのだそうです。本当は「会計……」というタイトルが予定されていたそうです。出版社の提言で変更になったとか。

 そのことを知った時、私は本当にこの本が「会計……」というタイトルで出版されなくて良かったと思いました。それは私が会計学と仲良くナイという理由のほかに、別の理由もあったからです。

 なぜかと言うと、この本に出会った時私は「株式会社って、いったい何なのだろう?」と心の中でつぶやきながら、本屋さんを歩いていたからです。そうしたら「株式会社とは何か」という背表紙と、パッ!と目が合いました。

 もしもタイトルが「会計……」だったら、私はいまだに「株式会社って、何だろう?」と言いながら、本屋さんをさまよっていたことと思います。

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本 : 「コーポレート・ガバナンス 経営者の交代と報酬はどうあるべきか」

 この本は、株式会社というものを短絡的に「株主の資産運用の道具」と結論づけようとしていた私に、「株式会社とは何か」という本を書かれた慶應大学の友岡賛先生が、先生のブログ上からお薦め下さった本です。(ちなみに私は慶應大学の友岡賛先生の学生さんではありません。)

 この本を読むことで、友岡賛先生が私にどういった視点を促そうとして下さったのか、受けとめたかったところなのですが、実はこの本は、私にはショックが大き過ぎて、今回はそこまでしっかりと読むことができませんでした。

 おかしな話だと思われるかも知れませんが、私にはこの本を読むことがとても大変だったのです。

 それは書かれてある内容が難しかったからということよりも、自分の視点を、著者の視点に合わせて何度も置き換えながら読まなくてはいけなかったので、そうした作業にエネルギーがかかってしまい、なかなか読み進めることができなかったのです。

 私はこの本を読むことで、はじめて株主でもなく、経営者でもない、学者の目から見た資本主義というものに触れたような気持ちがします。もしかしたら資本主義というものの、とても深い部分について触れてしまったのかも知れないと思いました。

 それはそれで、資本主義社会における労働者の経験しかない私には、大変ショックなものでした。

 ちなみに私はこの本を読むまで、「コーポレート・ガバナンス」という言葉についての理解は、まったくありませんでした。

 今はまだ感想もまとまらない状態ですが、現在感じていることを記録しておこうと思います。自然とショックの大きいトピック順になると思います。考えた言葉ではなく、本当に感じたままの、まとまりのない感想です。

 1番大きなショックとなったのは、資本主義社会においては、経営者という存在もまた、株主の資産運用のために、よく働くようにインセンティブを与えられ、また「経営」という、同時に「財産の運用」である行為に失敗をすれば交代させられてしまう、ある種の「労働者」に過ぎないのかも知れないと感じたことです。

 今までの私は、「労働者というのは、株主と経営者が行う会社経営という、ある種の資産運用の燃料なのではないかしら?」と思っていたのですが、この本を読むことで、「経営者が持っている、『経営』という能力や存在もまた、単なる資産運用のための道具でしかないのかも知れない」と、はじめて思いました。

 人間が持っている能力である労働力や、経営者が持っている経営をする力というものも、それ自体は何の能力も持っていない「お金」というものの集中傾向のために、動機を与えられ、行動させられるという「資本主義」というものの、ものすごさを、今までよりも一層感じたように思います。

 まるで、ものすごく大きな氷の崖の下から、呆然と断崖を見上げているかのような気持ちです。

著者の書き方はとても中立的なので、そのことは私にとってかえって、本当に単純に、深く、静かなショックとなったのだと思います。

 でもまた、読んでみて良かったと思うのは、資本主義社会というのはもともと、株主も経営者もその気になれば、いくらでもお金に貪欲になれる構造であるのに、それなのにそうした社会の中で、実際の企業をめぐる人びとは、それほど貪欲な行動は案外とらずに、社会を発展させてきたのだという、不思議な感慨です。「人間って、案外善良なのかも」という、希望のような気持ちです。

 「エンデの遺言」について考えたい私の立場としては相変わらず、「どうして株主の利益と、従業員や社会の利益が一致するかのように、これほどまでに固く信じられているのだろうか?」という点が、重いところです。

 とにかく途中で、経営者という存在が気の毒になってしまったり、視点の切り替えがうまくできなかったりで、なかなか読み進むことができませんでした。

 いつかまた時間を置いてから、もう一度読んでみようと思います。



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株式会社について考えるのは難しい…

 株式会社というものを理解する時に、私は単純に「株主の資産運用のための道具」と、仮の理解ですが、このように理解を置きました。このように仮説を置いて世の中を見渡すと、世の中の企業の行動というものが、かなり整然としているように感じます。

 この仮説はもともと「株式会社とは何か」(友岡賛著)という本から得た知識です。

ところでこの考え方を人前で話してしまうと、大変な反発を受けたり、私がとんでもなく性格の悪い人間だと思われたり、けっこう厄介なことになってしまいます。(たしかに私は、あまり良い性格の人間だとは言えないかも知れませんが…。)

 世の中の人はそれぐらい、株式会社という仕組みに肯定的です。

 私は「エンデの遺言」を支持する立場として、「一切の資産運用は廃止するべきではないか?(お金を出してもらったお礼はいいけれど。)」という立場なので、その一部として、株式会社における配当金という制度にも疑問を感じます。

 ところが株式会社批判というのは、「エンデの遺言」支持者やお金の研究者にも、本当に不評で困ってしまいます。

 どうして株式会社というものに対する見方は、これほど混乱するのか不思議に思い、世間知らずながらもその理由をいくつか考えてみました。

 ひとつは会計という、お金の立場から株式会社を見る場合と、経営という実際の事業を動かす立場から株式会社を見る場合の、視点の違いではないかと思います。

 先の「株式会社とは何か」という本は、会計学者の立場から、それも会計の歴史を専門とする立場から、株式会社というものをお金の面から見て「株主の資産を運用している」と説明しています。

 ところが事業を経営する人たちは、お金の立場だけから見るという見方はせず、経営という実体のある活動に着目してしまうので、「株主の資産を運用している」とは認識しないのだと思います。そうなると経営を行う人たちから見ると、「株式会社というものは、事業を始めたい時に、お金を出してもらえる良い制度」ということになるのだと思います。

 だからどちらの言い分も正しいけれど、視点が違うのではないかと思います。

 ふたつめの理由としては、西洋的な思想と日本的な思想の違いがあるのではないかと思います。簡単に言うと性悪説と性善説です。日本人には性悪説の発想がなじまないのではないかと思います。

 みっつめの理由としては、ひと言で株式会社と言っても、大企業と中小企業の場合は、まったく違う状況下にあるということです。

 所有と経営が分離している場合、大企業の場合は、株主は経営者を応援するために出資をしてあげるのではなくて、自分の資産運用として、株を買うのだと思います。その結果、出資をした会社にはよく儲けてほしいし、配当金も出してほしくなると思います。

 ところが中小企業の場合は、株主と経営者が顔見知りであることが多いらしく、そうなると株主ももともと、資産運用を期待するというよりも本当に「お金を出すことで、経営に参加する」という意識になると思います。

その場合には、配当金もそれほどは望みませんし、「出資した株を現金化した時にはいくら儲かるか?」などとは、考えないと思います。だいいち株を買ってくれる人がいるかどうかさえ、さだかではないはずです。

 そうなるとこの、まったく違っている目的の出資という行為を、同じ「出資」という言葉で表現してしまうのは、かなり雑な扱いではないかと思います。

 そしてよっつめの理由は、ものすごく人間的な理由ではないかと思います。

 たとえば現在の日本では、株を持っている人はものすごく多いと思います。その人たちは「会社の経営で資産運用をしている」とは、思いたくはないと思います。むしろ「株主になることで、自分は経営に参加している」と思いたいだろうと思います。

 株式会社を批判されても困るでしょう。

 株式会社について考えることは、本当に難しそうだと思います。


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地球のお金論08/お金の「信用」とは何なのか?

 地球では「お金は信用によって成り立っている」と言われます。

 ところでこの「信用」とは、いったい何を信用しているのでしょう?

 お金の信用とは、「そのお金を持っていれば、社会のほかの人はそのお金にたいして、何か、その人が持っている生産物を売ってくれる」という信用です。言わば「社会の、自分以外のほかの人の行動に対する信用」であり、あるいは、そのお金を使っている社会全体への信用です。

 どちらにしても信用の対象は、最終的には社会に生きている、「自分以外のほかの人の行動」です。

 金や銀を、お金の信用を裏付けるものと考える人がいますが、金や銀はそれ自体ではお金と同じで、特定の状況下でしか価値を持ちません。

 金や銀はお金と同じで、その金や銀と引き換えに、その人が生きるのに必要なものを、社会の誰かが売ってくれるという時にだけ、価値を持つものです。(現代では金や銀は、工業の原料として役に立つそうです。)

 お金の信用を、国やその国の中央銀行への信用だと考える人もいます。「ある国や、その国の中央銀行が発行するお金だから、信用できる」と考えるそうです。

 この考え方もあまり正しくはなくて、国や中央銀行は信用の代理をしているだけに過ぎません。どの国の政府も中央銀行も、地球上に何かがあって、人びとが生きるのに必要な食べ物などが不足してしまった時、人びとが生きるのに必要なものを、実際に用意してあげることはできません。

 そうするとその国のお金を持っていても、それはただの紙切れにしかなりません。お金を持っているよりも、生産能力のある人たちと友だちでいる方が安全です。

 「お金が大切である」というのはあくまでも、「そのお金と交換に、生きるために必要なものが、手に入る」という場合だけなのです。

 「お金に信用がある」というのはあくまでも、「そのお金にたいして、自分が生きるために必要なものを、社会のほかの人たちが売ってくれる」という場合だけなのです。

 国や中央銀行は、信用の代理はしてくれますが、それは本当の信用ではありません。本当の信用は、国や中央銀行が発行したお金に応じて何かを売ってくれる、「社会のほかの人」の方にあります。

 お金の信用というのは、本当は「社会のほかの人への信用」なのです。「人間同士の信用」です。

地球型のお金では、地球の科学技術の都合によって、お金は長いこと、それ自体に価値があるのだと信じられてきました。ところがお金は、本当はただの「価値を数値化した情報」に過ぎません。お金の本質は、単なる数値情報なのです。

 地球では金や銀などがお金の素材として使われた時期もありましたが、それは数値を表示する道具として、たまたま金や銀を使ったというだけです。お金が金や銀でなくてはいけないという理由は、まったくありませんでした。

お金は単なる「価値を数値化した情報」に過ぎず、そしてお金の価値の裏付けは、その人以外の人びとの生産活動にあります。

 お金は単なる数値に過ぎません。本来そのような数値だけをいくら貯め込んでも、それは子どもポイント・ゲームと変わりません。それなのに地球ではこのことが誤解され、立派な大人たちがポイント・ゲームに狂奔しています。

 やっかいなことにこのポイント・ゲームは、人びとの生命に関わっています。ところが人びともまたお金の価値の裏付けは、まさか自分たちが行う生産だとは気づいていないので、ポイント・ゲームに振り回されてしまうのです。

 地球の人たちは、自分たちの生存に大きな影響を与えてくるお金というものについて、一度は落ち着いて考えてみなくてはいけません。

地球の人たちは「お金」という社会で共有する道具を、正しく使いこなせるようにならなくてはいけません。自分たちの生産活動を、お金という道具に支配されてはいけないのです。

 そうしないと地球の人びとはお金の暴走に振り回され続け、いつか地球そのものまで痛めてしまいます。

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地球のお金論07/地球の資本主義に対する処方箋

 地球における資本主義はさまざまな問題を引き起していますが、それなのに具体的な対策は見つかっていません。

 資本主義の原因は、地球型のお金が「価値を保蔵するお金である」ということにあります。お金を長く手元にしまっておいても金額が変わらず、どんどん蓄積することができるために、人びとが意味もなくお金を貯め込み、さらには資産運用によって、ますます自分のお金を増やそうとするようになりました。

 そしてお金が蓄積可能であり、さらには資産運用によってもっとお金をかき集められるので、人びとは「運用によって、お金をもっと増やせるだろう」と見込まれる場合にしか、かき集めたお金を社会に出してあげなくなりました。お金を手に入れた人たちは、社会の人たちがお金を必要としていても、自分たちがお金を増やせる場合にしか、社会にお金を出しません。

 そのために社会で必要とされている事業があり、事業を経営したい人がいて、また会社で働きたい人がいても、先にお金を手に入れてしまった人たちは、その事業に投資をすることで、自分のお金が増えない場合にはお金を出しません。

 そして事業のためにお金を出してあげるよりも、もっと世の中の役に立たないことであっても、自分が持っているお金を増やせそうな方法に、お金を投資します。

 地球の人たちは、いったん手に入れてしまったお金は「減らしてはいけない」とか、「もっと増やさなくてはいけない」と考えます。

このことは「何かを買うためのお金」を集める場合には、正当です。でもお金をたくさん貯め過ぎて、「もはや買いたい物もない」というほどお金を貯め込んでしまった人が、さらにまたお金を貯めようとすることは、社会に対して有害です。

 何か制限をかけて、やめさせなくてはいけません。

 地球の人たちがそうまでしてお金を自分のところに貯め込み、「減らしてはいけない」と考えるのは、地球型のお金が「価値を保蔵する」からです。

 地球のお金は価値を保蔵するものだと考えられているので、人びとはいくらでも無限に貯め込んでいくことが可能です。お金が永遠に価値を保蔵するので、お金で何かを買うよりも、お金を手元に貯め込んでおく方が、その人にとってトクになるのです。

 地球のお金から価値を保蔵する性質をはずしてしまえば、この損得の関係は逆転します。

 お金を貯め込んでおくと、いつかお金が価値を失ってしまうようにするのです。そうするとお金を使わずに持っていると、ポイントカードのポイントが失効するようにお金の価値が失われ、お金を使わない方が損をすることになります。

お金を意味もなく貯めておくよりも、「何かを買ってしまった方がまだましだ」という状況に変わります。そしてほしいものをすべて買ってしまった人は、「どうせお金を持っていても、そのうちに使えなくなってしまうのだし、使い切れない分はいっそ、誰かにお金をあげてしまった方がまだましだ」と思うようになります。

資本主義に対策する方法は、資産運用を禁止し、お金の「価値を保蔵する機能」を取り払うことです。

はじめに「お金がお金を生み、増価する」制度を廃止します。お金を貸してもらったお礼は、お金ではなく、お金以外の生産物に限定します。

そして個人のところに貯め込まれ、生産物を買おうとしなくなったお金の機能は、ある時点で失効させます。価値の失効分は課税とし、社会の必要とする場所で、生産物の交換用に使います。

 このようにすると事実上、資本主義という経済体制は停止します。

 地球の人びとが資本主義のままでいたい場合には、もう少し穏やかな方法も考えられます。

 資本主義のままで、資本主義が持っている「お金がお金を生む」という働きを、できるだけ弱めます。具体的には資産運用によって得られたお金に高い税金をかけ、また資産運用によってお金を得る場合には、得られる金額に上限を設けるなどして、お金が蓄積される量を抑えます。

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地球のお金論06/地球における資本主義

 現在の地球は「資本主義」という経済体制であると言われています。

 ところが地球では、この「資本主義」という言葉が簡潔に説明されることはありません。資本主義というものは地球において、いつでも霧の中に隠れた動物のように、その姿をはっきり表すということはありませんでした。

 お金についてだけ考えてみた場合、資本主義にははっきりとした特徴があります。それは「お金はお金を生むものだ」と考えられていて、さらに「お金を貯め込むことは善である」と考えられていることです。

「お金がお金を生む」という現象は、地球では普通「資産運用」という言葉で表現されています。

 お金を手に入れた時に、そのお金で何かを買ってしまわずに、そのお金を「運用」すれば、お金がもっと増えてくるというのが資産運用です。お金を社会における生産物の交換に使わずに、社会からもっとお金を集めてくることに使うのです。

 この時、資産運用をする人は、社会に何かを生産するということはありません。資産運用をする人は、社会に一時的にお金を出してあげますが、その目的は、社会から、自分が出してあげた以上のお金を手に入れることにあります。資産運用はこの時に得られる差額が目的です。

 金利を含めたすべての資産運用は、自分は社会の生産には参加せずに、お金を使ってお金を増やし、そのお金でますますお金を増やします。この時はじめに用意されるお金は、通常「もとで」とか「資本」と言われます。

 ところでこの資産運用の結果、その人のところで増えた分のお金は、社会に参加しているほかの誰かのお金が、社会の仕組みの結果として、自動的にその人のところに移動してきたお金です。もともとは社会のほかの誰かが持っていたお金です。それが社会の仕組みに乗って、本人の自覚に関係なく、自然に資産運用をする人のところに移動します。

 この時多くの場合、お金を失った人は、お金を手離した自覚はありません。

 地球において、資産運用の方法は3種類です。金利と、値段が変動するものを買ったり売ったりすることによって得られる差額と、株式会社における配当金です。どの方法でもお金が移動する時に、新しいお金の持ち主によって地球上に新しい生産物が増加するということはなく、お金だけがただ所有者を変えて移動します。

 地球ではこのようなお金の手に入れ方を容認していますが、このようなことを容認しておくと、お金を生産物の交換には使わずに、お金を資産運用に使おうとする人が増えてしまいます。この傾向は大変危険です。

 資本としてお金を使い始めた人びとは、資産運用によってお金が増やせる場合にしか、お金を手離さなくなってしまいます。そしてますます、お金を貯め込んでしまいます。

 ところが地球上のお金は有限です。

 地球型のお金では、通常お金の発行者が決まっているからです。社会の多くの人びとは、自分でお金を発行する権利はなく、決められた人たちによって発行されたお金を使わせてもらうことになっています。

そうした社会全体でお金の量が閉じられている状態で、資産運用という行為を容認すると、お金の集中が起こります。そして相対的に、生産物の交換に使われるお金の量が減ってしまいます。

 地球の人びとは、資本主義経済が長く続くことで、貧富の格差が大きくなってしまうことを不思議がりますが、これはまったく自然なことです。

 お金を生産物の交換に使うのではなく、お金を貯め込み資本として使うことを善だと考えているから、経済活動が長く続くほど、生産物の交換に使うお金の不足が起こり、相対的に生産を行う人たちが貧しくなっていくのです。

これは地球型のお金が貨幣や紙幣という形を持ち、価値を保蔵するお金であったからこそ成り立つことでした。地球型のお金は、生産物の交換に使わずに長く持っていても価値を保蔵し、その上資産運用によって、ますます集めて貯め込むことができるからです。

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地球のお金論05/地球における金利の問題

 地球の歴史の中では時々、金利というものが問題視されました。

 金利は、ある程度お金というものを貯め込んだ人びとにとっては、とても都合の良い習慣でした。

 地球の人たちの生産能力がまだ、それほど高くなかった頃、人びとは本当に一生懸命働かなくては、安全な生活はできませんでした。自分たちが食べるものを作るにも、生産能力が低いと、十分な食べ物が作れません。人びとは社会の中でいろいろな仕事を分担し、それぞれの生産能力の中で、協力しあう必要がありました。

そうした社会の中では、自分だけが生産を行わず、ほかの人たちが生産したものを使う時だけ社会に関わるというのは、あまり上等なことでありませんでした。そうした人たちはたいがい、力ずくでものごとを押し通す、とても乱暴な人たちでした。地球には、そうした暴力的な時代は、ずいぶん長くありました。

この状況は、お金というものが使われるようになっても同じでした。

お金さえあれば、社会の生産活動に参加しなくても、社会に生産されている生産物を使えるので、力ずくで生きる暴力的な人たちは、今度は力ずくで、お金を手に入れたがるようになりました。

地球の人びとは、最初はとても従順でした。でもあまりにもひどくお金を要求され、自分たちの生産物を間接的に、お金をとおして奪われていることに気がつくと、人びとはそうした権力に抵抗するようになりました。

現代の人びとは、いちおう社会において、自分たちはそれほど不当にはお金を奪われていないと思っています。それは身分制度というものがほとんどなくなり、自分たちで納得しているお金の動きについては、ある程度、正当であると思っているからです。

ところが金利という社会の習慣は、こうした人びとの意識には見つからない分野で、ひっそりと、間接的に社会の生産物を奪ってきました。金利は言わば、生産をする人たちからは知られずに、社会の生産する人たちから、その生産物をひそかに手に入れる方法だったのです。

 金利の仕組みは、こういうことです。地球型のお金を使っている社会では、人びとが作った生産物を交換する時に、いったんお金で換算した数字の価値をつけ、その分のお金を手に入れます。それからそのお金が表している価値にふさわしいと合意された生産物と交換します。

 この時の数字の価値は、物の長さや重さというような、測定可能なものではなく、まったく、人びと同士の合意によって決まります。この時の価値は、自然における絶対的なものではありませんが、とりあえずは生産を行った人の生産物と、別の人との合意の結果です。

 この時の価値は、お金という、それ自体はまったく役に立たないけれど、交換を助ける道具として使われる紙切れや金属片によって、表現されます。交換によって生まれる、生産をした人と、社会との貸し借りの関係が、お金という道具を使って表わされます。

 この時のお金は、本当は決まったお金でなくてはいけないということは、ありません。社会の人びとが納得し合っていれば、臨時のお金でも、代理のお金でも、あるいは単なる紙に書いた約束の記録でもいいのです。

 でも地球では、特定のお金を使うという決まりになっていました。そうするとこの「特定のお金」というものが足りなくて、社会から借りを受けることができない人たちが出てきます。その時に、この「特定のお金」を、使用料をとって貸し出す人たちが現れました。この時の使用料が、金利です。

 お金そのものは、まったくの価値の無い道具に過ぎないのですが、この方法を使えば、まったく社会の生産に参加しなくても、社会からお金だけを手に入れることができてしまいます。そうして自分は生産をしなくても、社会に出ている生産物を使えます。

 地球型のお金の場合、金利にはある程度の正当性もありました。それは地球ではやはり、それほどまでに、「決められた、特定のお金」が貴重なものでもあったのです。

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地球のお金論04/お金は経済活動において従であるべきです。

 地球のお金は、社会の中に一定量の貨幣や紙幣を流し込み、その中で人びとが生産物の交換をする時に、その貸し借りの状態を表すという方法をとりました。この方法は、個人が使用する分には、とても扱いやすいお金でした。でもその一方で、社会全体におけるお金の量を調整するには、とても扱いにくいお金でした。

 地球のお金が抱えている問題点には、「お金がない場所では、人びとは交換ができなくなってしまう」という点にあります。本来、人びとの交換を助けるための道具であったはずのお金が、逆に人びとの交換を妨げてしまうという結果をもたらすようになってしまいました。

 地球では1929年に世界大恐慌という、その典型的な実例がありました。人びとは、世の中の役に立つ品物やサービスを作り出す能力もあったし、地球上には天然資源もちゃんとあったのですが、社会の中でそれらを交換し合うためのお金がなかったのです。そのために、世界中でたくさんの人びとが苦しむことになってしまいました。

 お金が、人間の経済活動の主人となってしまったのです。主人の許可と命令によって、交換を支配されるようになってしまった人びとは、「気まぐれなお金」という主人の命令に逆らうことができませんでした。お金は、世の中の生産を行う人たちをすっかり見捨ててしまい、社会のどこかに姿を消してしまいました。すっかりお金の家来となってしまっていた人びとは、完全にお金に振り回されてしまい、大切な働く力を持て余し、自分たちで生産した品物を、自分たちの手で捨てました。

 人びとは、人間が物を生産し、交換し、消費し、そしてまた明日の生産をするという、経済活動の主役が自分たちであるということを、見失ってしまったのです。地球における経済活動というのは、ただの紙切れや金属片であるお金が行うものではなく、人間が生産を行うからこそ成り立つものです。お金はそうした生産物の交換を助ける道具でしかありません。

 お金は人間の経済活動にたいして、王様や主人となってしまってはいけないのです。

 お金は人間の経済活動にたいして、従者となり、人間が行う生産物の交換にたいして影のように、人間の活動に従って動くべきものなのです。

 お金は人間が作ったものであり、人間の言うことをきくべきものなのです。それも、地球において何も役に立つものを作り出さない人たちの言うことをきくのではなくて、実際に生産を行い、交換の後に消費し、そして明日も生産を行う人たちの言うことをきくべきものです。なぜならお金で買えるものはすべて、人間が作ったものだからです。

 人間がまったく生産を行わなくなった時、お金はまったくその価値を失います。お金は魔法がとけるように、もはや価値があるものではなくなり、ただの紙切れや金属片に戻ります。生産がお金に力を与えているのです。

人間は、お金に制限されて、自分たちの生産活動や、交換の邪魔をされてはいけないのです。

 地球で生産を行う人たちは、大変お人よしでした。お金が使いやすくて便利だったので、すっかりお金というものをありがたいものだと思ってしまい、そのお金というものがどういう働きをしているのかについては、ほとんど誰も考えませんでした。お金を「ありがたいもの」にしているのは、自分たちが行う生産であるということを考えようとはしませんでした。

 そのためにすっかりお金は、生産を行う人たちの主人となり、王様のようにいばり散らして、生産を行う人々を苦しめるようになってしまいました。

 地球の人たちは、お金を「ありがたいもの」にしてあげているのは、自分たちであったことに気がつく必要があります。お金が「ありがたい」のは、地球において生産を行っている自分たちがいるからだということを、思い出さなくてはいけません。

 そうしないとお金はいつまでも、地球における暴君となり、生産をする人々を傷つけて、地球上で暴れ続けてしまいます。

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地球のお金論03/お金の役目とお金のいろいろ

 社会に一定量のお金を流し込んで交換を促進するという「地球型のお金」は、個人のレベルでは使いやすいお金ですが、社会における適量を調節することが難しいお金です。

 お金は「地球型のお金」に限らず、そのほかにも違う形のお金があります。

 地球では地域通貨という小規模なお金の中に、もっと扱いやすく、便利なお金の形が見られます。

 お金の目的は、個人と社会の貸し借りの関係を表し、記録を残しておくことです。この記録というのは、必ずしも紙に書いて残しておくという意味ではありません。個人がどれだけ社会にたいして借りがあり、また貸しがあるのかを、他の人にもわかるように表現できればいいのです。

 社会に一定量のお金を流し込んで使う地球型のお金の場合、お金を持っている人は「社会にまだ貸しがある」という意味です。またお金をまったく持っていない人は「社会に貸しもないし、借りもない」という意味です。地球型のお金の場合は、お金がなくなってしまった人はそれ以上、社会から借りを受けることができません。

 借りを受けることができないというのは、社会に出まわっている商品を買うこともできないし、サービスを受けることもできないということです。この状態になると、お金を使っている社会では、食べ物を買うことができなくなり、生命の危険にさらされます。

この状態になった人は、社会の人に頭を下げて、お金をもらうか、あるいは食べ物をもらうか、やむを得ない時にはお金や食べ物を人から盗んだりしなくては生きていかれません。

 「地球型のお金」の場合は、お金がなくなった人は、お金を誰かから貸してもらうということができます。この場合、この人は一時的にお金を持ちます。そして同時に、貸してもらったお金と同額の借用書も持つことになります。地球型のお金の場合は、借用書を持っていると、その人は「社会に借りがある」ということを意味します。

 地域通貨という小規模なお金の中の、「通帳型」というお金は、とても読み取りやすいお金です。これは「会員制のお金」と言えます。

 通帳型のお金では、金属片や紙片は使わず、一定の会員たちの間で、直接貸し借りの関係を、それぞれの通帳に記録します。交換や貸し借りの関係が起こった時に、両者の通帳に記録される必要があるので、その点では「地球型のお金」よりも少し不便です。

 この方法の良いところは、「地球型のお金」のように、社会に存在しているお金の量に制限されずに、人びとが自由に交換や貸し借りの関係を作れることにあります。

「地球型のお金」の場合は、社会に発行されてあるお金がないと、せっかく何かを生産しても、お金がないために交換や貸しを作ることができないといったことが起こりますが、この「通帳型」のお金ならば、生産した品物があり、それをほしがってくれる人がいれば、貸し借りの関係をそのまま通帳に記録して、貸し借りの関係を記録しておくことができます。社会全体の、お金の量を管理する必要がありません。

問題があるとしたら、社会から借りっぱなしの人はどうなるのか?ということですが、その人以外の社会の人たちが、それでもいいと思うのであれば、その人を借りっぱなしでいさせてあげてもかまいません。

あるいはやはり、その人も社会に貸しを作ってくれるような何かをしてほしいと思うのでれば、それはその人に伝えて、貸しを作ってくれるような何かをしてもらうべきです。またお金の使用を制限するべきです。

そのあたりの判断は、会員内の合意で決まります。

お金にはそのほかに「自己発行型のお金」というお金もあります。このお金は、社会に借りを作った人が、その金額分のお金を発行し、「いつかこの金額分の何かを、社会にお返しします」と約束するものです。

このお金は、お金を発行した人の控えに「社会からの借り」のみが記録されます。

 お金は、個人対社会の、貸し借りの状態が表現できれば、それでいいのです。

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地球のお金論02/「地球型のお金」は扱いにくい

 地球のお金は、科学技術が大変遅れている状態から始まりました。そのため地球型のお金は、社会全体から見ると大変「扱いにくいお金」です。

 お金は本来、個人と社会の間の貸し借りの関係をはっきりさせ、その状態を数値化して表現し、忘れないようにしておくための道具です。

個人が、社会に貸しを作って上げた時には、その人の数字の持ち分はプラスになり、社会から何か借りを受けた時には、その人の数字の持ち分がマイナスとなる、という大変シンプルな道具です。

 お金が表していることは、ただそれだけです。

 ところがこれだけの単純なことを表すのに、地球では大変な苦労がありました。現在のように、個人を特定し、さらに、その個人における、社会との貸し借りの情報を表示しておける、電子マネーが作れなかったからです。

 地球のお金は貝殻を使ったり、金属片を使ったり、まずは形のあるお金から始まりました。

こうした形のあるお金を使う場合、お金は社会に十分な余裕を持って用意されている必要があります。お金が大量に用意されていないと、人びとが貸し借りの関係を作りたい時に、その関係を表現するためのお金が足りなくなるからです。

 お金が2者間の貸し借りを表す道具であれば、2者間で貸し借りの状態についての納得ができれば良いだけなので、簡単な話だったのですが、お金は複数の人の間で納得がされて、使われる必要がありました。それも顔見知りの間だけでなく、顔も見たことがない人たちにも、納得された上で使われる方が便利でした。

 人々が作り出す生産物は多様であり、人々が持っている能力もさまざまだったからです。AさんとBさんだけの社会よりも、たくさんの人が参加する社会の方が、いろいろな交換ができて便利です。

 地球のお金は、金属片や紙片といった形を持ちました。この方法は、生産物の交換にはとてもらくでした。難しいことを考えずに、社会から何か財やサービスを受けとった時には、お金を渡し、社会に何か財やサービスを差し出してあげた時には、お金をもらえばいいからです。何かをもらったらお金を払い、何かをあげたらお金をもらうというのは、個人にとって、とても使いやすいお金です。

 ところがこの方法は、一転して社会全体から見ると、大変扱いにくいお金でもありました。

 地球の人たちの生産活動は、お金があろうと無かろうと、天然資源があり、人々に生産能力があれば、どこででも生産が起こります。生産が起こり、それを必要とする人がいれば、そこに交換、または貸し借りの関係が生まれます。

 ところがそのようにして、自然発生的に社会に生まれてしまう交換量の変動に、社会全体のお金の量が追いつけなくなってしまうのです。

 地球のお金は、社会の中に一定量のお金を流し込んで、その中で交換を便利にしていくという方法だったので、社会全体で発生してしまう交換の量と、社会に流し込まれているお金の量が、うまくかみ合わないことがよくありました。

 社会全体で発生してしまう交換の量は無限に近いのですが、お金の方が有限なので、社会のあちらこちらでお金という、貸し借りの情報を表示する道具の不足が、起こりやすいのです。

 この状態を少しでも解消するためには、社会のどこかで交換の必要がなくなったお金は速やかに、交換の必要が起こっている場所に移動させ、交換の道具として機能させる必要がありました。社会全体で、すぐには交換に使わない余ったお金を、持ち主を変えて移動させる必要があったのです。

 ところが地球では、お金が金属片や紙片という形を持っていたために、お金を移動させることがとても難しかったのです。

 お金を持っている人は、お金を社会から隠して、自分のところにしまい込むからです。そうすると社会のどこかでお金が余っていても、誰にもわからなくなってしまい、お金を移動させることができません。

 そのため地球では、つねにお金の不足に、悩まされ続けてきました。

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