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2010年5月

お金とは他者があってこそ成り立つもの

 私は「お金を貯め込みすぎることは、社会のためによくないのではないか?」と考えています。

 それで私がこのようなことを言うと、たいがいの人はびっくりしてしまって、なんとか私の考えを思い直させようとするのですが(笑)、それは私がどの程度のお金の貯め込みを、社会のために害があると考えているのかが、うまく伝わらないためではないかと思います。

 普通の人が老後を安心して暮らすために、貯金をするとか、何か大きな仕事をしようとするためにお金を貯めるとか、そうしたことは、まったく問題はないと思います。貯め込まれたお金は、いずれは何らかのお買い物に使われ、社会に流れていくからです。

 でもそうではなくて、お金をただ「持っているため」だけに貯め込むことが、いけないことなのではないか?と思うのです。「もう買い物を目的としていない」という状態です。

 「買い物を目的としない」という意味から言えば、お金をただ「増やすため」だけに持っていて貯め込むことも、いけないことではないかと思います。いわゆる「資本」としてのお金です。

 お金は買い物を目的とする場合にだけ、ある程度の範囲内で貯め込むことがゆるされるのではないか?と思います。私がそう考えるのには、理由があります。

 お金というのは、他者があってこそ成り立つものだからです。

 「無人島ではお金は価値がない」というのは、よく言われることですが、無人島では本人だけで他者がありません。そうするとお金は魔法を失ったように、価値を失います。

 お金に価値を与えているのは、実は、お金との交換に応じてくれる他者の生産です。つまり「お買い物をさせてくれる、自分以外のほかの人」なのです。

 人間の社会とは不思議です。人間同士が助けあっているからこそ、お金に価値があり、自分ひとりだけの社会になった時、お金に価値はなくなります。

 だからお金というものは、ある程度は自分のために貯めておくことが必要だとしても、それは、将来も含めた上でお買い物に使える量だけにしておいて、それ以上のお金は社会で、必要としている人に使わせてあげた方がいいと思います。あるいはそれ以上のお金は社会的に、取り上げてしまってもいいかも知れません。

 そうしないと貯め込み過ぎてしまった分のお金は「その人だけのもの」となってしまい、永遠にお買い物に使われることもなく、他者の存在と切り離されてしまうからです。

 私たちの社会に存在するお金は、中央銀行と市中銀行によって発行されるお金だけであり、そうだとしたら社会全体のお金の量には限りがあるということになります。

 その有限なお金を、誰かがひとりじめ、あるいは数人じめ?してしまって、すっかりお買い物に使わなくなってしまうと、社会全体でお買い物のチャンスが減ってしまいます。これは「何かを生産しても売れず、生産物が消費されないで、そのまま減価を起こしてしまう」という、現実の世界の経済の効率を妨げます。たくさんの人が困ってしまいます。

 お金を使ってあげるということは、社会のほかの人に交換のチャンスを与えてあげるということです。言ってみれば、世の中に生産されている生産物に、消費のチャンスを与えてあげるということです。これは現実の、実体のある経済の効率を高めます。

 だから余るほどお金を持っている人は、どんどんお買い物をしてお金を使ってあげれば、とても社会貢献になると思います。寄付という形で、ほかの人にお金を使ってもらってもいいと思います。

 自分の人生におけるお金の量も足りない人が、無理をしてお金を使ってあげる必要はないと思いますが、お金が余っていて、財産の中のかなりの部分がもう「使い切れないお金」になっている人は、たくさんお金を使ってあげた方が、とても社会貢献になると思います。

 どうせ社会から切り離されて、その人がひとりぼっちになった時、そのお金は一気に「無人島のお金」になってしまうのです。

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企業の利潤追求が壊してしまうもの

 少し前に「株式会社というフクザツ…」という記事を書きました。(5月13日の記事です。)

 これは私がコール・センターで、ある企業さんのクレーム処理担当として働いた経験から、思いついた記事です。要旨は、企業が株主のために利潤追求をし過ぎることによって、その企業が社会に提供する製品やサービスの質が低下し、その結果、製品事故などが起こった場合には、その企業の株主もまた、今度は消費者としてその不利益を被ってしまう可能性もあるのでは?と、そうしたことを表現したいと思いました。

 具体的な例としては、例えば自動車、家電製品、食品のリコール、それから社会的に多くの人が利用する交通機関、特に鉄道、飛行機の事故などです。

 この時に私は、「企業が財務諸表の中で利益を大きくしようとする活動は、実体のある経済活動の世界において、何かを破壊している」と感じていたのですが、その「何か」というものが、いったい何なのか説明できませんでした。

 それでその後もずっと、「いったい何を破壊しているのかな?」と、なんとなく考えていました。この記事は、その結論ではなくて、ひとつの試論です。もしかしたら思考に歪みがあるかも知れません。

 財務諸表というのは、簿記の世界で作成されるものです。そして簿記というのは、人間が経済活動を測定し、それをお金の価値で表現する作業です。簿記の世界はお金という数値で表現されている世界であり、決して、本当に人間が何かを生産したり、交換をしたりする、実体のある経済活動そのものではありません。

 極端なことを言えば、簿記をつけなくても、人間が何かを生産し、交換するという、実際の経済活動は可能です。もっと極端なことを言えば、お金を使わなくても、人間同士がよく信頼し合える共同体では、実体経済だけで経済活動を運営するということも、理論上は可能なはずです。つまり「お金のいらない社会」です。

 とにかく簿記の世界に現れる財務諸表は、実体のある経済活動そのものではなく、その活動を写し出した姿に過ぎません。そして「利益」はその数値化された世界に生まれる「差額」です。(もっとも私たちの社会では、利益は単なる「数値上の差額」とは思われていなくて、「お金の増加分」として認識され、ある「実体」と考えられているようです。これはお金が、単なる「数値」ではなく、経済活動における「実体」と考えられているためです。)

 財務諸表の中で利益を生み出すために、実体のある経済活動の世界では、仕入先への支払金額と、労働者の賃金が抑えられます。そして労働者には、売上を大きくさせるべく、プレッシャーがかけられます。

 そのようにして損益計算書の中で、2つの方向の力がかけられ、差額として生み出された利益は、一部は株主に配当金として支払われます。

 私たちの社会の経済活動は、人間が実際に何かを作ったり、交換したりする実体のある経済活動と、簿記という、お金の価値で測定された世界が、のりづけされたように貼り合わされて、動いていると思います。

 そうすると企業が利益を生みだそうとする時、この「貼り合わせ部分」にある種の「きしみ」が生まれ、その時に何か、実体のある経済活動の世界における「自然さ」というか、「あるべき姿」が破壊されるのではないか?と思います。

その結果、企業による製品やサービスにおいて、欠陥が出るのだと思います。

 でもその「破壊されている自然さ、または、あるべき姿」というものが、うまく説明できません。

 そのことについて現時点では、もしかしたら、こういうことではないか?と、思います。

 ある量の作業をある完成度で達成するために、ある人数の労働者と一定の作業時間が必要だとします。でもそこで労働者の数を減らして、1人あたりの作業のノルマをきつくして作業をさせれば、賃金は抑えられ、利益は大きくなります。

 ところが労働者は、ロボットではなく人間なので、長時間、緊張を強いる作業をさせると疲れてしまって、作業の質が下がります。その結果、注意力、集中力、判断力などが低下し、事故が起こると思います。

 労働者は人間なので、お金という、人間が測定に使う数値ではなくて、動植物のように「自然」に属しているのだと思います。そして自然に属しているということは、「あまり無理はさせられない」のだと思います。

でも企業は利潤を追求するための組織なので、そこで無理をさせてしまい、その結果、製品事故や、交通機関の事故につながるのではないかと思います。

人間はお金を出す以上、それに見合うサービスはほしいと思います。そしてまた、出したお金以上のサービスが得られれば、うれしいです。納税、お買い物など、どちらの場面でも、払ったお金以上のサービスが得られれば、うれしいです。そのためにも社会には、有能な行政府と、知恵のある企業を持ちたいです。

ただ株式投資における配当金だけは、質が違うような気がします。

お金を出して、良いサービスを求めるのではなく、よりたくさんのお金を望むので、その時に、実体のある経済活動の世界の「自然さ」とか「理(ことわり)」とでも言うべきものを破壊してしまうのではないか?と思います。

その結果、現実の世界に破壊が起こり、「株主としてお金の面でトクはしたけれど、消費者として迷惑を被る」ということが起こるのではないかと思います。

このテーマは不思議でおもしろいので、もっと良い説明を探したいと思います。

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本 : 「エンデの島」(高任 和夫著)

 「じゃあ言おう。経済はじつは愛の領域なんだよ。(後略)」

 物語の終盤、突然この台詞が語られた瞬間に、それまで真っ青な空と海に包まれていた世界に突然、輝くようなブーゲンビリアの濃いピンク色が浮かび上がり、そのまますっと世界いっぱいに広がっていく…。

 そうした、強烈な印象を受けました。

 まるで夜が明けたような感じです。

 「この島には、何かがある。この島の奥底には、何かが眠っている」。

 そうした予感をだんだんと濃くしてゆきながら、物語の中で少しずつ夜明けの時刻が迫り、とうとうぽっかりと水平線から太陽が現れた…。

 そういう感じです。

 台詞はこの後、こう続きます。

 「人が幸せになるためのものだ。ものをつくる喜びを味わったり、人の役に立つビジネスをやったり、コミュニティを支えたりするのが経済というものなんだ」。(冒頭の台詞1行とともに、「エンデの島」高任 和夫著より引用)

 この物語に出会ったのは、1年前でした。私はこの物語の世界を知った時の感動を、いまだに言葉に表現し切れません。

 この小説は、東京都の八丈島を「奥ノ霧島」という架空の島に見立てて、その島で地域通貨システムを運営した世界を描くという、一種のシミュレーション小説です。でもその架空の世界が、ものすごいリアリティにあふれていて、本当にそういう島が存在するのではないか?と思えてしまうほど、心に焼き付いてしまうのです。

 それは著者がデザインした地域通貨システムの設計が大変徹底していて、かえって現実に運営されている地域通貨システムよりも、はるかに理論的な裏付けがあるように思われ、そうした整然とした世界が、強烈なリアリティを生みだすのだと思います。

 島の自然の色彩や、照り返す日差しのまぶしさ、山から見る風景など、自然の描写も何もかもが素晴らしく、本当に自分がその島にいるかのようです。

 そしてその島で運営されている、島民のために無利子で融資を行う島民ファンド、地熱発電所、島のバス、地域通貨運営団体である「オッキイ」、質素な役場、島で働く人たちの姿など。

本当に著者がその島で、島の人たちから取材をしてきたかのようです。

 内地(本土)からの大資本の流入を抑えるために、島内の建物の建蔽率などに制限を設けるというアイデアは、素晴らしいと思います。資本による侵略を正面から抑えることはできなくても、実体のある経済の側において制限をすることで、結果的に資本の収奪から自分たちの島を守っています。

 たくさんの素晴らしいアイデアがあり、物語の中の世界をどれほど知っても飽きません。

とりわけすばらしい施設は、島の病院です。この島の病院には、日本中から人が集まってくるのです。(詳しくはもう実際に読んで、島のことを知っていただくしかありません。)

 私はもともと南の島が好きなので、物語の中に出てくる島の組織や運営に驚嘆するのはもちろんのこと、さらには心の中で、熱帯魚が泳ぐ美しい海のシュノーケリングを堪能し、空気を味わい、すっかり心の中でこの島を楽しんでしまいました。

 「冒険」と「革命」に憧れる、この物語はもともと男性のための物語のようです。

 資本主義社会の中にありがちな、どこか灰色に疲れてしまっている男性たちが、この島では静かな野心を抱いた、大変魅力的な男性に変貌します。この島の男性は概して年齢に関わらず健康的です。

 私は若い女性ではありませんので、この島に移住しても、内地から男性を呼び込む力にはなれませんが、それでも男性たちが魅力的な、この島に移住してみたいと思ってしまいます。(笑)

 地域通貨を運営されている運営者の方には、一度は読んでいただきたい物語だと思います。

 普通、経済小説に「美しい」という言葉は似合いません。でもこの物語は反対に、「美しい」という言葉しか似合わないと、私は思います。

 経済とは本当は「殺伐とした戦い」ではなく、大変人間らしい、「愛の領域」に属する活動です。

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本 : 「スイス人銀行家の教え」(本田 健著)

 最近、突然経済に関する本や新聞の記事が、まったく読めなくなりました。読んでみても何が書いてあるのか、さっぱり意味がわからないのです。読もうとしても楽しくないし、読もうと努力をするだけ時間の無駄だと思うので、最近は読むのを止めました。

 でも、それにしても…。

 「いくら経済の本が読めなくなったからと言っても、だからと言って突然これはないでしょう?!」という気もします。(笑)

 どうして急にこの本が読みたくなったのか、それはまた自分にもよくわかりません。私は別に資産家になりたいわけではないので、この本を読んでもたいした野望もわかないし、あまり得るところはないだろうと思うのですが。

 この本は私にとって、経済の本ではありません。どちらかと言えば、心に関する本だと思います。

でも読んでみたら意外にも、経済に関して役に立つお話もかなりありました。

 普通私のような社会階層の者は、お金持ちの金銭感覚について、あまり情報がありません。でもこの本を読むとけっこう素直な気持ちで、お金持ちの感覚について知ることができると思います。この本には成金的なギラギラとしたエネルギーがあまり漂っていないので、どちらかというとお金持ち気分を楽しみながら、同時に経済のことについても考えることができそうです。

 すでに「読んでみて良かった」と思った点が、いくつかあります。

 1つはスイスのプライベート・バンクの考え方です。

 「運用」よりも「資産保全」。運用はするけれども、「インフレに負けない程度の運用」。「貸し出しは、普通しない」。

 やっぱり貸し出しはしていないのです…。

 ということは、この場所に流れ込んでいってしまったお金は、もしかしたら「塔の上のラプンツェル」状態(幽閉状態?)になってしまって、もう2度と世の中に「皆さんの交換のお手伝いをさせて下さ~い♪」などと、元気良く出てきてくれることはほとんどない?、ということでしょうか?

 それはもしかして、世の中にものすごく害があるのでは?、という気持ちもしなくはありませんが…。ただこの本全体にガツガツとした雰囲気がないので、そうした記述もまた興味深く読めてしまいます。

 また読んでみて良かったと思ったことの、別の1つには、お金持ちレベルの分類♪というものがありました。

 私は普段、お金や経済のお話をして下さる方に、「お金持ちの人たちが、お金を使わないで、自分のところに貯め込んでしまうことが、世の中に問題を引き起こしているのではないですか?」などと言ってしまうことがよくあるのですが、そうすると途端にその場にミョーな緊張感がただよってしまって、お話がぎこちなくなってしまうことがよくあります。それで正直に言うと、「ちょっと面倒だな」と思うことがよくありました。

私がそうしたことを言うと、たいがいの話相手の人は心の中が真っ青になってしまうらしく、「いや、人間は将来が心配だから、お金を持っていたいと考えるものですよ!」などと、急にお金を貯め込むことの正しさを主張し始めてしまうのです。

でも私が言っている「お金持ち」というのは、そういう普通の範囲のお金持ちのことではないのです。

 でもお金持ちのレベルを表す分類というのは聞いたことがありませんし、私自身は収入の全額、またはそれ以上を消費にまわしているような生活レベルなので、そうしたお金持ちの度合いの説明ができませんでした。

 そうしたらこの本の中に、ちゃんと整理されてありました。

 とてもわかりやすい分類です。

1)お金に余裕のある人たち。月々に数十万円を自由に使える。
2)小金持ち。月に100万円は自由に使える。
3)金持ち。月々の収入が普通の人の年収ぐらい。
4)大金持ち。資産規模が数十億円から数百億円。
5)世界的大富豪。資産規模は「小さい国」(!)ぐらいのことも。

 このお金持ちレベルの話はおもしろいので、近いうちにまた続きを書いてみたいと思います♪



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「プリティ・ウーマン」のヴィヴィアン♪は経済のことがわかっている?!

 「プリティ・ウーマン」のDVDを見ていたら、以前は気がつかなかったけれど、とても感心?してしまう会話に気がつきました。

 ヴィヴィアンというのは、ハリウッドの街角に立つコールガールなのですが、意外にも経済のことをとてもよく知っているようなのです。それも実業家や学者のように知っているというのではなくて、まったく普通の人の感覚で理解しているようなのです。

会話を抜粋しました。字幕の作成者の名前がDVDの中から見つけられなかったので、ここには表記できませんでした。(作成者さま、申し訳ありません。)

 場面は、エドワードとヴィヴィアンがビバリーヒルズの高級ホテルで、朝食をすませたところです。2人はまだ知りあったばかりです。「E」としたのが、エドワードの台詞で、「V」としたのが、ヴィヴィアンの台詞です。(読みやすいようにかぎかっこ、「、」の位置を多少変えました。)

V「仕事は?」
E「企業買収」
V「どんな企業を?」
E「財務上、困難にあえぐ企業だ」
V「買いたたくの?」
E「今週は10億ドルを投じて某企業を買収する」
V「10億ドル?」「頭がいいのね。私は高校2年で中退。」「最終学歴は?」
E「大学院だ」
V「親の自慢の息子ね」「10億ドルなんて持ってないくせに」
E「銀行や投資家の融資だ。買収もらくじゃない」
V「生産や建設はやらないの? 買収した会社は?」
E「売る」
V「売るだけ?」
E「会社を解体してバラバラに処分する。儲けが大きい」
V「車を盗んでパーツを売るのと同じね」
E「だが合法だ」

 よく考えてみると、すごい会話だ♪と思いました。ヴィヴィアンという女性は、学歴は高校中退であっても、資本主義社会におけるビジネスには、「何か、世の中の役に立つものを生産してお金を得るビジネス」と、「世の中の役に立つものは何も生み出さずに、ただお金だけを得るビジネス」の、2種類のビジネスがあることを、ちゃんと知っているのです。

 私は、自分が経済のことを知りたいと望むようになるまで、このようなことはまったく知りませんでした。企業買収という言葉を聞いても、「そういう仕事もあるのか」と思って、それで終わりだったと思います。普通ヴィヴィアンのような階層の女性は、だいたい私と同じようなものではないかと思っていたのですが。(笑)

 「車を盗んでパーツを売るのと同じ」という表現には、私にはそうなのか、どうかはわかりません。企業買収という事業は、「盗む」というよりも「お金の力を使って、合法的に取り上げる」という印象があるので、「力ずくで、安く、取り上げて」という表現の方がいいような気もします。

 でも、それもまたエドワードが言うように、本当に「合法」です。

 「プリティ・ウーマン」はラブ・コメディであり、シンデレラ物語ではあるけれど、あちらこちらにアメリカ的な資本主義社会の素材が散りばめられていて、おもしろいと思います。

 競争社会の中ですっかり冷たくなってしまっているエドワードの心をいやし、間接的に大事業を救ってしまったヴィヴィアンという隠れた構図は、どこか資本主義社会的な夢を含んでいる恋愛ドラマであるようにも見えます。

 時々しか見ないDVDなのですが、今回は2人の会話の内容に気がついて、また新しく、すっかり楽しんでしまいました♪

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「ゲゲゲの女房」を見ています♪(2)

 今朝も「ゲゲゲの女房」を見ていました。そうしたらまた「貧乏」をキーワードに、おもしろい台詞がありました。

 フミエさんの夫のシゲルさんは、ものすごく一生懸命マンガを書いて、働いているのに、どうしても貧乏です。そこにフミエさんのお父さんが、いなかから様子を見にきてしまいます。お父さんが見ている時だけでもちょっと、仕事がうまくいっているように見せようとしたのですが、ところがその見せかけがバレてしまいました。

 そこで怒った時の、お父さんの台詞です。

 「一生懸命働いていても、それでも貧乏だというなら、どうどうと貧乏しとったらええんだ!」。

 う~ん、この台詞も気に入りました。さっぱりしているところが、とてもイイ!

 どうせふりをしたって、しなくたって、お金は数字なのだから、ない時はないんです。労働の報酬が少ない社会では、どれほど働いたって、稼いだお金が生活費に足りなくなって、貧乏になってしまいます。

 世の中はそういう仕組みだと思います。だから貧乏は、どうどうとやりましょう♪(^O^/

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現実が先?、簿記が先?

 簿記というのは、現実の経済活動を数値化して、表現する行為だと思います。

 簿記自体は、単なる記録ということなので、別に企業の活動の記録に限定されないし、おそらくいろいろな経済主体の活動について、実践できることなのだと思います。

 ところが「会計」となると、話は違います。

 会計というのは、財産の運用をまかされた人が、財産の運用をまかせてくれた人に対して行う「説明」だからです。(この定義は、慶応義塾大学の友岡賛先生の考え方をもとにしています。)

 そうするともともとの行為が、「財産の運用」なのだから、どうしても「運用の結果を良くする」という、方向性が生まれると思います。

 「財産を運用する」ということは、最初はある量だったお金を、もっとふやそうとすることです。その新しく増えていく分とは、企業の利益の、一部です。この利益を最大化しようとするのが、企業の活動です。

 そして利益というのは、自然の世界に存在するものではありません。財務諸表の中にだけ、数字として表れる差額です。

 ところがこうなると、私は不思議に思ってしまいます。

 というのは簿記上に現れる金額というのは、本当に決まっているお金の金額もあるけれど、人間の感覚で測定したり、人間の話し合いで決まる金額があるからです。

 「金額」というのは、「物の重さ」というような、自然科学の世界のように、はっきりと測定して示せるものではありません。自然の世界のものには、最初から値札がついているものなど、何ひとつありません。自然の世界のものに値段をつけるのは、人間です。

 人間が自然の世界のものを測定して、金額という数字をあてはめるのだと思います。

簿記はそうやってあてはめられた数字をもとにして、企業の財務諸表を作ります。利益は財務諸表の中に現れ、一部が財産を運用した経営者と、財産の運用をまかせた株主のところに移動します。

 企業の活動が、もしも「財産の運用」という状況を抱えていなければ、企業は財務諸表の中に利益を見出す必要はないと思います。

 企業が利益を見出す必要がない時、売り上げたお金の一部は、企業の継続のために企業の中に残しておくとしても、残りはすべて仕入先への支払いと、従業員の賃金にすることが可能になります。

 企業は財務諸表の中に利益を生み出し、出資者に配当する必要があるから、仕入先への支払いを値切り、従業員の賃金を低く抑えます。

 でも財務諸表の中に現れる利益というのは、数字の世界の中だけに現れる「差額」に過ぎません。

 どうして単なる数値上の世界にしか存在しない利益のために、現実の世界で働いている仕入先への支払いや、従業員の賃金が削られなくてはいけないのか?と思います。利益など、ただの数字上の差額でしかないではないか?と思います。

 利益は金額で表されます。でも「お金」というものは、もともとただの数字です。金属で表現されようが、紙に書かれようが、電子マネーで表現されようが、結局はただの数字です。

 どうして、ただの数字が、現実の世界で本当に働いている仕入先への支払いや、従業員の賃金を押し下げようとするのでしょう?

 数字など、現実の世界においてパン1つ生産することもできないのに。

 現実の経済活動を写しとっているはずの簿記の方が、いつの間にか、本当に現実の世界において経済活動を行っている人間の活経済動に手をのばして、現実の経済活動の方を動かしてはいないでしょうか?

 この世界に存在する便利なものは、すべて人間が作ったものであり、簿記はその活動を数値化して写し出す影のような存在だったはずです。それなのにどうして、いつのまにか簿記の方が、人間の経済活動を振り回しているのでしょう?

 数字は人間に従うべきものなのに、どうして反対に人間を動かしているのでしょう?

 お金と簿記は人間が作ったものなのに、どうして、人間の方が動かされてしまっているのでしょう?

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本 : 「12歳からはじめる賢い大人になるためのビジネス・レッスン 『会計』ってなに?」(友岡 賛著)

 この本は、慶応義塾大学の友岡賛先生が子ども向けに、「ビジネス」について教えることを目的として書かれた本、なのだそうです。

 そしてこの本は、最近ある福祉系専門学校のテキストとして、「大量注文(?)」が入った本なのだそうです。(「大量注文」という言葉の後の、「(?)」は私がつけたわけではありません。友岡賛先生がご自分のブログの中で、そのように書かれていらっしゃいました。)

ただ私はこの本を、簿記を学ぶ時の準備段階の本として、某福祉系専門学校の生徒さんだけでなく、なるべく世の中のたくさんの人に読んでいただきたいな♪と思っています。

 その理由は、私はもっと、世の中のたくさんの人が簿記というものをわかるようになり、私が今考えているような、経済や家計や、「エンデの遺言」や、地域通貨のようなお金の話について、簿記を使いながら考えられるようになったら、お話があいまいではなく、もっと具体的なものとなっていいのではないか?と考えているからです。

 簿記を知りたい人のための本というのは、世の中にたくさんありますが、私はそうした簿記のとりかかりの本の中で、あえてこの友岡賛先生の本をイチオシ!したいと思います。

 その理由の1つは、これはもうありふれた理由となりますが、友岡賛先生のご説明は、とてもわかりやすいからです。

 それからもう1つの理由は、友岡賛先生は会計学者さんですが、世の中一般の会計や経済の専門家とは、少し違った株式会社観をお持ちの学者さんだからです。

 友岡賛先生のお立場では「株式会社は、出資者の財産(お金)を運用している」という、世の中の一般の見方とはかなり違った、少し特殊な見方が、いつでもしっかりと貫かれてあります。

これは友岡賛先生が、単なる現代の会計だけを知っている会計学者さんではなくて、過去の時代からの会計の歴史について詳しくていらっしゃるために、自然にそうした主張となるのだと思いますが、そのお立場は、子どもむけとされているこの本の中でも変わりません。そしてその考え方は、実際の社会の現実とたしかに合っていると、私は思うのです。

 私は友岡賛先生の主張されているこのお立場が、世の中にあまり広く知られているわけではないらしい(?)ということを、とても残念に思います。このことを知るだけで、世の中の働く人たちは、経済に関するいろいろな疑問がたくさん溶けていくと思うのです。

 この本を読んでも簿記の資格がとれるというわけではありませんが、簿記の基本的な考え方を理解したり、株式会社というものについて理解するには、とても役に立つ本です。

 なおこの本の表紙に使われている色は、激しいショッキング・ピンク!です。あんまりはっきりとしたピンク色なので、書店や図書館で注文をした時は、担当の人が背表紙を見ても会計の本だと気がつかずに、カウンターの中の本棚で見落としてしまうことがあり、少し注意した方がいいと思います。

 もしもカウンターのこちら側から先に気がついたら、「その派手なショキング・ピンクの背表紙の本です!」とおしえてあげた方が、早く気がついて取り出してもらえます♪(笑)

*友岡賛先生は時々こちらのブログにもコメントを下さるので、この記事は敬語で書かせていただきました。私の感じたままを書いており、とくに「ヨイショ!」はしてありません。

*そ、それにしてもタイトルが長いデス…!

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「ゲゲゲの女房」を見ています♪

 このところずっとNHKの「ゲゲゲの女房」を見ています。漫画家の水木しげるさんの奥さんのフミエさんのお話です。時代はどうやら私が生まれるほんの少し前ぐらい、東京、調布でのお話です。

 フミエさんが結婚した当初、漫画家の水木しげるさんの家にはあんまりお金がありませんでした。あんまりお金がないので、先週頃の放送では、奥さんのフミエさんが庭の木の葉っぱを家計簿のしおり代わりに使って、お金のやりくりを考えながら「この葉っぱがお金に変わればなぁ…」とぼやいていました。

 現在の私もまったくおんなじ気持ちです!

失業生活が長引いているので、だんだん貯金の残高が減ってしまいました。天ぷら用に切ったサツマイモの1枚を見つめては、「このサツマイモがお金に変わればなぁ…♪」などと言っています。

フミエさんがやりくりに困っていた頃は、庶民はどこのお家にもあんまりお金がない時代でした。お金がないので誰かに借りようと思っても、訪ねていったその家もまたお金がないので、貸してあげたくても、貸してあげられないという時代でした。

現在の私もかなり近いものがあります!

私のまわりでは元派遣だったお友達が2人ほど失業しています。どちらかが相手に貸してあげたいと思っても、お互いにゆとりがなくてどうにもできません。

 ドラマの時代から50年近くたっているのですが、どうしてか私のまわりには同じ状況が再現されています!(いったい、なんで???!)

 そんな折、今朝の放送の一場面です。

 水木しげるさんはものすごく一所懸命マンガを書いて、働いているのですが、どうしてかお家は貧乏なのです。その状況をフミエさんが、ご近所の貸本屋さんのおばあちゃんに話していました。するとそのおばあちゃんが言いました。

 「(そんなに一所懸命働いているのに貧乏だということは、)貧乏なのは、あんたらのせいじゃない! 世の中が悪いんだ!」。

 シンプルな言葉ですが、この言葉を聞いた途端スッキリしました。本当にそうだと思います。

 「私が悪いのかも知れない」などと思っていたら、気分がくさくさしてしまいます。

 というわけで、本日も青空の下のお散歩がてら、私は元気良くハローワークまでお出かけ♪です。なんだか日本は50年前の時代と、たいして変わっていないような気がします。

 相変わらず失業者とワーキング・プアが存在しています。

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もしも冷たい土の上に

 もしも冷たい土の上に、裸足で歩かなくてはいけない子どもがいれば、私は誰もが思うように、その子に靴をはかせてあげたいと思うでしょう。あたたかい服と、誰にもでも抱き上げてもらえるように清潔なお風呂、遊べるおもちゃ、文字を覚えるための教材など。その子が安全に、楽しく生きられるように、いろいろな物を与えてあげたいと思うでしょう。

 もしもどこかの見知らぬ国に、貧困に苦しむ大人がいれば、私もまた誰もが思うように、その人が安全に生きられるようにと願うでしょう。

 だけど私は信仰者なので、少しだけほかの人とは違う考え方をするかも知れません。(ここに言う「信仰者」とは、特定の宗教を信じる者という意味ではありません。)

 私は、その人が本当に、その貧困から抜け出したいと望んでいる場合だけ、何か自分にできることはないかと、考えるでしょう。人間はかなり複雑な生き物なので、文化的な事情によって、状況の改善を望んでいない場合もあると思うのです。本人が望まないことを、ほかの人がどうこうしてはいけないと思います。

 そして、もしもその人が本当に貧困から抜け出したいと思っていることがわかったら、私はその人に、とりあえず緊急の生活必需品は調達してあげたいと思うでしょう。

でもある程度それが落ち着いたら、その後は「お金をあげる」のではなくて、その人にできる仕事をなんとか、調達してあげたいと望みます。

 信仰者にとって仕事は、この世で言うところの、苦痛な労働ではありません。何かの罰でも、やむを得ない義務でもありません。そして、無理をしなくてはいけない、楽しくないものでもありません。

 仕事とは本来、神さまから分け与えられている、その人ならでの才能を発揮し、その才能を世の中に役立てて、その結果「ありがとう」と世の中の誰かから、自分が生きるために必要なものを与えてもらう交換です。それが「働いて、お金をもらう」という形に見えるのです。

 人間は本来、誰もが宝石のようなさまざまな才能をその中に、芽を出す前の種のように抱いていて、その宝石が芽を出してから花開き、世界に輝きを放ちます。そうしてみんなで、たくさんの才能の花を咲かせながら、世の中が発展していくのです。

 「仕事がない」ということは、宝石が種の中に眠ったままとなり、世界に花が咲かないことを意味します。地上が荒れ地になることを、意味します。

 神さまという言葉を使おうが、使うまいが、そうしたたくさんの才能を、種のままで捨ておくということは、本当はその方がよほど「不経済」なお話です。

 仕事は、実体経済への投資が不足すると、なくなります。お金が仕事を呼んで、仕事をとおし、人間の才能の花が開きます。お金は流れ、才能と才能をつなぎます。

 貧しい国の実体経済にお金が水のように流れ込み、たくさんの種の中の宝石が花になれば、その時世界に、貧困は消えてなくなるでしょう。

 お金が水のように流れ込み、そのままその地に留まって、花たちの間の交換をつないでいれば、お花畑はいつまでも枯れないでしょう。

そんな夢のようなことを、考えました。

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株式会社というフクザツ…

 コールセンターのオペレーターという仕事をしたことがあります。その時の仕事はクレーム処理でした。

 ある企業がちょっとお客様にご迷惑をおかけしてしまい、そのお問い合わせ電話に対応するのが、私の仕事でした。いちおう、お話の運び方のマニュアルが用意されてあります。

 私の立場は、企業さんの窓口としてお客様にお詫びをお伝えし、そのあとの対応をご説明するというものです。

 ところがある時マニュアルの中に、オペレーターとしては少し困ってしまう記述がありました。

 「この対応は、お客さまに本当にこのままご案内してしまうのですか? この状況でこの対応は、お客さまに失礼ではないでしょうか?」と、そういう感じの対応です。

 でも私が質問をしているのも、企業さんから電話対応業務を請け負っているコールセンターの社員さんです。企業さんが「こうしてくれ」というものには、逆らえません。

また企業さんには、企業さん側の都合があって、お客様には少し負担であっても、その対応が用意されてあるのです。

 こういう時はオペレーターとして、けっこう困ります。その説明をした後の、お客様のお怒りももっともだと思ってしまうので、その説明をしなくてはいけない時、本当に心が痛みます。

 でもこちらも仕事なので、そこはマニュアルどおりにご説明するしかありません。心の中では、「本当にゴメンナサイ!」と思うのですが、でも、言いマス。(きっぱり!)

 コールセンターでは、それなりにけっこうな数の電話を取ります。クレーム対応の時は、とにかく1日に、本当に相当な数の「申し訳ございません」を連発しています。人によっては、本当にものすごくお怒りなっていらっしゃるお客様のお電話を受けるということもあり、その対応はなかなかです。

 そんな風にたくさんの電話の音が鳴っているセンターで、ある時ふと、おかしなことを思いました。

 クレームの原因は、まぁその時は、企業さん側の問題でした。

ただその企業の財務諸表を見たわけではありませんが、もともと株式会社というものは利益を出すために、人件費を節減したり、海外の工場で生産をしたりして、どうしても製品を作る人たちに、多少無理をさせなくてはいけない事情があります。

株式会社というものはもともと、どうしても利益を大きくするために、経営を行わなくてはいけないという事情があるのです。そうするとその結果どうしても、時々、利益を最大化しようとするあまり、お客様にご迷惑をかけてしまうということも起こると思います。

「ちょっと利益を追求し過ぎちゃったかもね…」、というような感じです。

 ところで株式会社が利益を追求するのは、株主に配当金をたくさん払ってあげたり、株価を高くしてあげようとするためです。株式会社は何よりも、株主のために利益を追求してあげるのです。

 そうすると「もしも」ですが、私が受けたたくさん電話の中にその企業さんの株主さんがいたとしたら?

その株主さんは、自分の財産を増やしてもらうために、株を持っている企業さんにがんばってお金をたくさん儲けてもらい、その結果、企業さんが思わずがんばりすぎて起こしてしまった失敗によって、今度は消費者として、製品によるご迷惑を被ってしまったという、大変フクザツな立場にあるのではないか?と、思いました。

 株主が同時に、その企業の製品の消費者でもあり得るというこの状況は、利害関係がかなりビミョウではないかと思います。

 もっともご本人は、その関連性に気づかない場合がほとんどであろうと思いますが…。

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5月になって…

 先月頃より、「私のお金の勉強は、5月になったら何か変化があって、予想がつかないことになる」という予感がありました。でも何が起こるのかは、わかりませんでした。

 それが今日になって、何が起こったのかがわかりました。

 突然、経済関係の本が読めなくなりました。

 読めない理由は、「泥臭い…」と感じるようになってしまったからです。経済に関するあらゆることが、とても荒々しい話題であるように感じてしまって、読んでいても楽しくなくなってしまいました。まるで戦記物でも読んでいるかのような、ひどく、美しくない世界を見ているように感じます。

 これでは楽しくなくて、本が読めません…。

 予想がつかなかった「何か」というのは、このことだったようです。いったい何が起こったのか、自分でもよくわかりません。お金の勉強に関するメーリング・リストも、まるで遠くの世界のお話のように感じて、読めなくなってしまいました。心がまったく、反応してくれません。

自分がこの間まで、本当にそれらの文章を読んでいたとは、信じられないような気がします。

 とにかく今は、私は、経済のことは考えなくてよさそうです。

 部屋の中にある、経済に関する本を見ながら、少し途方にくれてしまいます。リサイクル書店で売れるといいのですが…。

 社会人大学も、どうやら中途放棄になりそうです。いちおう1回は卒業してあるので、これもまた、まぁいいとして。

 それにしても、こんなに突然、変化が起こるとは思いませんでした。

経済は、本当は現実的で、健康的な、愛のある活動であるはずなのですが、現在の地球の状況はほど遠いです。

 何にしても、心を痛めるような世界には、意識を向けないことが大切です。美しくないと感じるものを見つめることは、健康のためによくありません。

 それにしても変化が急激過ぎて、本人も自分で、驚いています。

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未来からの歴史

 ちょうど3年前の5月、私が「ミヒャエル・エンデが指摘していることは、たぶん正しいのだ…」という直感を受け取った時期のことですが、私の頭の中にあるイメージが浮かびました。そのイメージは正直に言うと、マンガでした…。

 未来のいつか、小さな可愛らしいネズミの子どもたちがマンガの中で、どこか学校のような場所で、歴史の授業を受けているのです。

 ネズミというのは、本当はレミングという、集団行動をするネズミをひっかけたもので、私の中では「経済について何も考えることなく、反応的に行動してしまう庶民」の象徴です。

 そのレミングの子どもたちが、未来の学校のような場所で、過去の時代の資本主義について、歴史の授業を受けています。先生が何かを話しているのですが、私には音声は聞こえませんでした。

 おそらく21世紀の終わり頃、地球では資本主義が完全に終わっていて、子どもたちはまったく新しい時代を生きているのです。先生はそういう生徒たちに、21世紀の途中まで実際にあった、資本主義という経済体制の説明をするのに苦労しています。この時代の子どもたちはもはや、格差も貧困も環境破壊も知らないからです。

 子どもたちはおそらく10歳ぐらいです。先生の話を聞きながら、過去のすさまじかった経済体制の話に、みんな目をまるくして聞いています。プロジェクターのような装置で、過去の時代の映像が次々と、でもあっさりと写し出されます。みんな信じられないような場面にショックを受け、思わず目をそらしてしまう子どももいます。

 「どうして子どもが、サッカーボールを縫っているの?」。

 「どうして子どもが、ぼろぼろの服を着て、裸足なの?」。

 「どうしてせっかく作った食べ物を、あんなに捨てちゃうの?」。

 「どうして誰も、地球が汚くなるのを止められなかったの?」。

 子どもたちの質問は、絶えません。

 先生がゆっくりと語ります。過去の時代にはお金というものが、まったく間違って考えられていて、そのために地球では経済というものが、うまくまわらなかったのだと説明します。

すぐに「経済って、何ですか?」という質問が起こりました。

 「経済というのは、人間がみんなで何かを作って、それもできるだけ無駄をしないように、らくに作れるように工夫をして、そうしてみんなで作ったものを、お金をとおして、みんなで上手に分け合っていくことですよ」と。

 またすぐに次の質問が飛びました。

 「お金って、これのことですか?」。

 質問をした子どもの手には、わずか2センチほどの小さなキー・ホルダーが握られていました。ほかの子どもたちも、自分のペンダントとかバッヂになっている、自分の電子マネーを見ています。

 この時代には、もはや「匿名貨幣」と呼ばれた貨幣や紙幣は存在せず、すべてが完全公開性の電子マネーでした。子どもたちは、お金をただのポイントだとしか思っていないのです。

 ポイントは、あまり使わないままでいると、失効してしまいます。この時代は子どもでも、世の中の役に立つことができれば、ポイントを稼げる時代でした。子どもたちはポイントが余れば惜しげもなく、ポイントを必要としている人達に分けてあげました。

 21世紀の前半に、地球の歴史が変わったのです。人間とお金の関係が逆転し、お金は人間に従う存在となりました。

その転換は、地球の過去の時代の中で、自然科学における地動説から天動説への転換と同じほど、大きな転換でした。それまで地球では、お金に人間が振り回されていて、たくさんの大人や子どもが苦しみ、たくさんの地球の資源を無駄にしていたのです。

資本主義は、人びとのお金の認識が修正された後、ゆるやかに終わりを告げました。

いつのまにか、子どもたちは本当の人間の子どもの姿になっていました。みんな、いろいろな色の肌、髪の色、瞳の色とさまざまでしたが、子どもたちは全員幸せそうでした。この時代、大人たちはたいがい心が優しく、子どもたちのことを考えてあげる余裕がたくさんありました。地球は緑と、爽やかな空気に満ちていて、とても美しい場所でした。

お金の認識が変わり、経済が自由になって、地球の歴史が変わったのです。

私が見てきたイメージの中では語られませんでしたが、この時代、もはや子どもたちは誰にも競争を強いられてなどいませんでした。誰もがオンリー・ワンで、誰もが本当に、自分なりの才能の「天才」でした。

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会計の本のとびら絵7/「減価」の発見!

 この絵は「会計の時代だ 会計と会計士との歴史」(友岡 賛著)という本の、「第五章 発生主義」という章のとびら絵です。イラストは、いながきちえこさんというイラストレーターさんによるものです。

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 うしろの像は、まさか固定資産でしょうか?
 羽がついているということは天使? どうしてとんがり帽子をかぶっているの?
 それにそのトボけたポーズはいったい何???(いいけれど♪)

 高々と時計を掲げる不思議な像の前で、大変悩ましげな表情で「10年」と記録をしているおじさんは、どうやら固定資産の耐用年数を決めている様子です。

 この章は、発生主義についてのお話です。売掛金の考え方と、固定資産の減価償却の考え方について、説明されています。著者の言葉では「固定資産を知ったとき、そのとき、そこに近代会計が見えてくる」のだそうです。

 私は、過去に経理事務員だった時、まさか固定資産という考え方に、それほど深い意味があるとも思わず、「不思議な科目だな~」と思いながら、社内の固定資産にペタペタ、ステッカーを貼っていたのですが、この章であらためて理解してみると、減価償却という考え方は、ますます興味を引かれる考え方だと思います。

 「エンデの遺言」を知った人は、まるでシルビオ・ゲゼルが自然界における「減価」の発見者であるかのように錯覚してしまうかも知れませんが、実は会計の世界においては、19世紀前半には、減価が認識されていたそうです。

 そうなると、むしろゲゼルの方が、実業家として簿記を理解していたからこそ、かえって「減価するお金」を思いついたのではないかと、勝手に想像力を広げてしまいました。

 著者のお話はこの後、会計士という存在に焦点が移っていきますので、このあたりまでがいちおう、現在あるような簿記のスタイルが確立するまでの過程だと思います。

会計の歴史というのは、意外と「時間」というものと、深く関わりながら簿記を進化させてきた歴史であったのだと思います。期間計算もそうだったし、減価償却もそうでした。

 それは時代の発展とともに、人間の営む企業活動が大きくなり、継続化して長期化し、その結果、利益を出資者に公平に分配するための手法として、やがては自然界における「減価」という現象さえも、もはや無視できなくなり、簿記にうつしだすよりほかにはなくなったという、そういう歴史であったようにも思います。

 「会計の本のとびら絵シリーズ」は、この記事で終わりです。
 ありがとうございました。(^0^)/

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会計の本のとびら絵6/人間がお金を持って走る時♪

 この絵は「会計の時代だ 会計と会計士との歴史」(友岡賛著)という本の、「第四章 近代会計の成立環境」という章のとびら絵です。イラストは、いながきちえこさんというイラストレーターさんによるものです。

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 少し話が飛びますが、以前に社会人大学の授業で、イギリスの金融の歴史の授業を受けたことがあります。ゴールド・スミス、イングランド銀行、富くじ、国債、南海バブル、コーヒー・ハウス、鉄道や運河の建設などなど。

 いちおう経済史の授業だったのですが、おもしろいようで意外にも、気分的にはなかなか疲れる授業でした。というのは、とにかくギャンブル的な話ばかりになってしまうので、だんだんうんざりしてしまい、そのうちにくたびれてしまったのです。

「儲かる」とか、「儲からない」とか、「儲けよう!」としたけれど「バブルがはじけて大騒ぎ!」など。

私が普段気にしている社会の低下層の人たちなどは影も形も出てこなくて、とにかく人びとが投資または投機にむらがり、えんえんとお金を増やそうとする歴史の授業でした。

イギリス人というのはトランプだけでなく、とにかく「賭け事」が好きなのかも知れないと思いました。

銀行やお金について知りたかった私には、それなりにおもしろい授業だったのですが、それにしても、後から思いだしてみても話題が話題だけに、どこか爽やかさに欠ける授業だったように思います。(笑)

 この章はおもに、そういう時代のお話です。法律など、社会制度に関するお話が多いので、私には少し苦手な章でした。

 この絵は最初に見た時、銀行の取り付け騒ぎと勘違いをしてしまいました。きっとみんな、自分のお金を守ろうとして急いで走ってきたのかな?と。

 ところがよく見たら人びとは、お金を差し出すように手に持って、積極的に建物に集まっています。その姿勢はとても元気がよくて、何か「おもしろいこと♪」か、あるいは「楽しいこと♪」にお金を出そうしている様子です。

 これは出資♪です。おそらく出資♪です。

 絶対に、納税や、どこかの国の自然災害の義援金ではありません!

 ロンドン東インド会社への出資?
 それとも南海バブルの出資でしょうか?
 この建物は何でしょう?

 とにかく人間がこんなに楽しそうにお金を出したがるなんて、宝くじか株か、お金が儲かりそうな時だけに決まってます!(^0^

 建物の上の彫刻たちの表情が、とてもイイ味を出していると思います。

私としては、彫刻たちの衣装がなんとなく庶民っぽいような気がして、もしかしたら、「ほんっとに、よくやるよね~」なんて言いながら、上から見物しているのかしら?などど、勝手に思いめぐらして楽しんでしまいます♪

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