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もしも冷たい土の上に

 もしも冷たい土の上に、裸足で歩かなくてはいけない子どもがいれば、私は誰もが思うように、その子に靴をはかせてあげたいと思うでしょう。あたたかい服と、誰にもでも抱き上げてもらえるように清潔なお風呂、遊べるおもちゃ、文字を覚えるための教材など。その子が安全に、楽しく生きられるように、いろいろな物を与えてあげたいと思うでしょう。

 もしもどこかの見知らぬ国に、貧困に苦しむ大人がいれば、私もまた誰もが思うように、その人が安全に生きられるようにと願うでしょう。

 だけど私は信仰者なので、少しだけほかの人とは違う考え方をするかも知れません。(ここに言う「信仰者」とは、特定の宗教を信じる者という意味ではありません。)

 私は、その人が本当に、その貧困から抜け出したいと望んでいる場合だけ、何か自分にできることはないかと、考えるでしょう。人間はかなり複雑な生き物なので、文化的な事情によって、状況の改善を望んでいない場合もあると思うのです。本人が望まないことを、ほかの人がどうこうしてはいけないと思います。

 そして、もしもその人が本当に貧困から抜け出したいと思っていることがわかったら、私はその人に、とりあえず緊急の生活必需品は調達してあげたいと思うでしょう。

でもある程度それが落ち着いたら、その後は「お金をあげる」のではなくて、その人にできる仕事をなんとか、調達してあげたいと望みます。

 信仰者にとって仕事は、この世で言うところの、苦痛な労働ではありません。何かの罰でも、やむを得ない義務でもありません。そして、無理をしなくてはいけない、楽しくないものでもありません。

 仕事とは本来、神さまから分け与えられている、その人ならでの才能を発揮し、その才能を世の中に役立てて、その結果「ありがとう」と世の中の誰かから、自分が生きるために必要なものを与えてもらう交換です。それが「働いて、お金をもらう」という形に見えるのです。

 人間は本来、誰もが宝石のようなさまざまな才能をその中に、芽を出す前の種のように抱いていて、その宝石が芽を出してから花開き、世界に輝きを放ちます。そうしてみんなで、たくさんの才能の花を咲かせながら、世の中が発展していくのです。

 「仕事がない」ということは、宝石が種の中に眠ったままとなり、世界に花が咲かないことを意味します。地上が荒れ地になることを、意味します。

 神さまという言葉を使おうが、使うまいが、そうしたたくさんの才能を、種のままで捨ておくということは、本当はその方がよほど「不経済」なお話です。

 仕事は、実体経済への投資が不足すると、なくなります。お金が仕事を呼んで、仕事をとおし、人間の才能の花が開きます。お金は流れ、才能と才能をつなぎます。

 貧しい国の実体経済にお金が水のように流れ込み、たくさんの種の中の宝石が花になれば、その時世界に、貧困は消えてなくなるでしょう。

 お金が水のように流れ込み、そのままその地に留まって、花たちの間の交換をつないでいれば、お花畑はいつまでも枯れないでしょう。

そんな夢のようなことを、考えました。

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