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企業の利潤追求が壊してしまうもの

 少し前に「株式会社というフクザツ…」という記事を書きました。(5月13日の記事です。)

 これは私がコール・センターで、ある企業さんのクレーム処理担当として働いた経験から、思いついた記事です。要旨は、企業が株主のために利潤追求をし過ぎることによって、その企業が社会に提供する製品やサービスの質が低下し、その結果、製品事故などが起こった場合には、その企業の株主もまた、今度は消費者としてその不利益を被ってしまう可能性もあるのでは?と、そうしたことを表現したいと思いました。

 具体的な例としては、例えば自動車、家電製品、食品のリコール、それから社会的に多くの人が利用する交通機関、特に鉄道、飛行機の事故などです。

 この時に私は、「企業が財務諸表の中で利益を大きくしようとする活動は、実体のある経済活動の世界において、何かを破壊している」と感じていたのですが、その「何か」というものが、いったい何なのか説明できませんでした。

 それでその後もずっと、「いったい何を破壊しているのかな?」と、なんとなく考えていました。この記事は、その結論ではなくて、ひとつの試論です。もしかしたら思考に歪みがあるかも知れません。

 財務諸表というのは、簿記の世界で作成されるものです。そして簿記というのは、人間が経済活動を測定し、それをお金の価値で表現する作業です。簿記の世界はお金という数値で表現されている世界であり、決して、本当に人間が何かを生産したり、交換をしたりする、実体のある経済活動そのものではありません。

 極端なことを言えば、簿記をつけなくても、人間が何かを生産し、交換するという、実際の経済活動は可能です。もっと極端なことを言えば、お金を使わなくても、人間同士がよく信頼し合える共同体では、実体経済だけで経済活動を運営するということも、理論上は可能なはずです。つまり「お金のいらない社会」です。

 とにかく簿記の世界に現れる財務諸表は、実体のある経済活動そのものではなく、その活動を写し出した姿に過ぎません。そして「利益」はその数値化された世界に生まれる「差額」です。(もっとも私たちの社会では、利益は単なる「数値上の差額」とは思われていなくて、「お金の増加分」として認識され、ある「実体」と考えられているようです。これはお金が、単なる「数値」ではなく、経済活動における「実体」と考えられているためです。)

 財務諸表の中で利益を生み出すために、実体のある経済活動の世界では、仕入先への支払金額と、労働者の賃金が抑えられます。そして労働者には、売上を大きくさせるべく、プレッシャーがかけられます。

 そのようにして損益計算書の中で、2つの方向の力がかけられ、差額として生み出された利益は、一部は株主に配当金として支払われます。

 私たちの社会の経済活動は、人間が実際に何かを作ったり、交換したりする実体のある経済活動と、簿記という、お金の価値で測定された世界が、のりづけされたように貼り合わされて、動いていると思います。

 そうすると企業が利益を生みだそうとする時、この「貼り合わせ部分」にある種の「きしみ」が生まれ、その時に何か、実体のある経済活動の世界における「自然さ」というか、「あるべき姿」が破壊されるのではないか?と思います。

その結果、企業による製品やサービスにおいて、欠陥が出るのだと思います。

 でもその「破壊されている自然さ、または、あるべき姿」というものが、うまく説明できません。

 そのことについて現時点では、もしかしたら、こういうことではないか?と、思います。

 ある量の作業をある完成度で達成するために、ある人数の労働者と一定の作業時間が必要だとします。でもそこで労働者の数を減らして、1人あたりの作業のノルマをきつくして作業をさせれば、賃金は抑えられ、利益は大きくなります。

 ところが労働者は、ロボットではなく人間なので、長時間、緊張を強いる作業をさせると疲れてしまって、作業の質が下がります。その結果、注意力、集中力、判断力などが低下し、事故が起こると思います。

 労働者は人間なので、お金という、人間が測定に使う数値ではなくて、動植物のように「自然」に属しているのだと思います。そして自然に属しているということは、「あまり無理はさせられない」のだと思います。

でも企業は利潤を追求するための組織なので、そこで無理をさせてしまい、その結果、製品事故や、交通機関の事故につながるのではないかと思います。

人間はお金を出す以上、それに見合うサービスはほしいと思います。そしてまた、出したお金以上のサービスが得られれば、うれしいです。納税、お買い物など、どちらの場面でも、払ったお金以上のサービスが得られれば、うれしいです。そのためにも社会には、有能な行政府と、知恵のある企業を持ちたいです。

ただ株式投資における配当金だけは、質が違うような気がします。

お金を出して、良いサービスを求めるのではなく、よりたくさんのお金を望むので、その時に、実体のある経済活動の世界の「自然さ」とか「理(ことわり)」とでも言うべきものを破壊してしまうのではないか?と思います。

その結果、現実の世界に破壊が起こり、「株主としてお金の面でトクはしたけれど、消費者として迷惑を被る」ということが起こるのではないかと思います。

このテーマは不思議でおもしろいので、もっと良い説明を探したいと思います。

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