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里芋の話から(時間の経過と、生活循環)

 ゲゼルの「減価するお金」について考えるようになってから、ある時「消費と減価は何が違うのだろう?」と考えていた時期がありました。

 どちらも形が消滅して、結果的に消えてしまうのは同じです。

 たとえば野菜を食べてしまうことによって、野菜の姿が消えてしまうことと、小麦やお米を保管しても、どうしても時間の経過とともに品質が下がってしまって、最後にだめになってしまう現象は、「消えてしまう」という結果は同じです。

 でも、何かが違うのではないか?と感じていました。

 そういう時に、まさか自分が過去に書いた文章が、その答えを見つけていたのだと気づいて、自分で「ああ、なるほど」と納得したことがありました。

 2005年の1月に書いていた文章です。保管してあった里芋にかびをはやしてしまったことは、さておいて…。

 私が「エンデの遺言」は本当のことだと直感したのは、2007年の5月です。

 人間が食べたものは、人間の中に吸収されて、その人が未来を生きるエネルギーに変わります。服でも、家でも、教育や娯楽でさえも、生産された生産物は消費によって、目に見える形は消えますが、その生産物が存在していたことによって、人間の生命は生き続け、翌日からの未来へつながります。

 そうして未来につながった人間がまた、生産をします。

 「時間の経過」という、どうしても止められない変化をする世界の中で、私たちはそういう経済活動を日々繰り返し、過去から未来へと生きています。

生活循環です。

ゲゼルの言う「減価」は、生活循環の外にあるのです。

 だから「減価するお金」なのだと思います。

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「里芋」

 実家から送られてきた里芋の皮をむいていた。
 袋の下の方にあったのを手に取った時、その里芋がかびているのに気がついた。そんなにしばらく、放ってしまっていたかしらと、壁のカレンダーに目をやった。
 たしかに、少したっていた。

 里芋は。
 畑の中から実を作り、土から掘られて、人の手もとまで来る。
 畑の中で実になってから、ある時間だけ「食べられる里芋」であり、その期間を過ぎると、今度は食べられなくなる。
 ずっと、里芋のまま、食べられるわけではない。

 私の手の中にある、小さな里芋。

 世の中にあるものは、すべて、変化し、変滅してしまう、その途中。
 私は不思議な気持ちで、手の中にある里芋の、ぬめりに気をつけ、皮をむく。

 
里芋も、じゃが芋も米も、肉も、魚も、いつも、いつまでも食べられるままではない。
 すべて、時間が過ぎれば食べられなくなる。
 私達は、そういう変化する世界の中に、生きている。

 もしも、この里芋が永遠に「食べられる里芋」のままであったら。
 世界の中で、どれぐらいの人達が飢えから解放されるだろう。
 里芋だけでなく、米でも、小麦でも、食べ物がすべて、いつまでも食べられるまま、変化しなくなったら?

 里芋は、私の食卓の煮物になった。
 しょうゆやみりんの香りがする、あたたかな煮物が、私のお腹におさまる。
 里芋の栄養は、これから私の身体の一部になり、変化した里芋の栄養と一緒に、私が明日を生きてゆく。

 私もいつか、変化する。
 いつか、私の時間の終わりには、私もまた、灰になり、土になり。そして、この世界から消えてゆく。

 私は、生きている間に、この世界で何をしておこう?
 変化してしまった里芋のように、私も何も、形を残さなくても。

 私は、自分の意思で。
 何をしようか?

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