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2012年2月

経済学者だから、わからない。

 一時期「エンデの遺言shine」は、世の中を良くしてゆきたいと思っている、かなりの人たちの間で話題になったはずです。そしてその中には、もちろん経済学者や経済の専門家という人たちもいたはずです。

 

 でもその中の誰も、エンデが示唆していった先を、見つけることができなかったようなのです。少なくともネット上に、すっきりと解明されているサイトは、なさそうです。

 

 経済学者や経済の専門家でも解明できなかったお話なのに、どうして、私のような、たいして頭が良いわけでもない人間が、あっさり解明できたのか?sign02

 

 (少なくとも私は、自分では「わかった!shine」と思っています。ただ今のところ、誰にも話せる状況がないので、自分の中であたためているだけではありますが。)

 

 ここまできて振り返ってみると思うのですが、この内容は経済学者の方が、理解がしにくいことなのだと思えてきました。経済について知っているということが、逆に、私が見ているような世界を見ることの妨げになるのだと思います。

 

 結局こういうことなのですが、経済学というものは、もともと「お金」というものを絶対視した上で、お金、金額、値段という数値から、考え始めていると思います。dollar

 

 ところが経済というものは、お金や金額という世界にあるものではなくて、人間が実際に作っているジャガイモや、ニンジンや、お米や衣類や労働力など、そのほかにもいろいろな生産物がある世界の方に、存在しているのです。

 

 その中でお金は、ある役目を果たしてはいますが、決して「経済のそのもの」というわけではありません。

 

 だから本当は、経済というものを数値化するということは、とても難しいことであって、たとえばジャガイモ何トン、そのためにかかった人間の人数や労働力はどのぐらいで、生産されたジャガイモのうちのどれだけが消費され、どれだけが消費されずに減価または廃棄されたのか? 投入した労働力の量に、無駄はなかったか?、など。 

 

 ここに出てくる数値は、すべて重量であったり、人数であったり、時間であったりして、無理やり金額に換算しても、ほとんど意味をなさないことばかりです。libra

 

 でもこのように、具体的な何かを必要なだけ作り、分け合い、完全に使い切るということこそが最善の効率であって、「経済的shine」であるということです。

 

 経済学を勉強してしまうと、おそらく先に数字の世界dollarにとらわれてしまい、こうした現実的な世界の出来事が見えなくなってしまうのではないかと思います。

 

 このことについて、私は一度、会計の専門家という人に聞いてみたいと思うのですが、「会計は写像である」という言葉をよく聞きます。

 

 ある本ではこの言葉について、「鏡に映っている犬の姿」の挿絵がありました。

 

財務諸表は、鏡の中に写った犬の姿のことであり、会計の写し取り方によって、その姿がゆがむのですが、犬の方は鏡のこちらがわにいる、犬そのものです。(という意味で、合っているのかな?、と一度専門家の方に聞いてみたいのです。^^;)

 

 私が解明した(つもりになっている)お話も、そういうところがあって、経済学という世界は、鏡の中に写った写像の方を研究しているのです。それにたいして本当の経済活動というものは、鏡のこちら側にある、人間が生きていて、体温を持っていて、そして常に変化し続けているという、現実の世界の方がそうなのです。

 

 でもそのことは、一度経済学を勉強してしまうと、もうわからなくなってしまうのだと思います。金額によって数値化された写像にとらわれてしまい、現実の世界に起こっている出来事を、忘れてしまうと思います。

 

 だから「エンデの遺言」というお話は、経済学者の方が、解明しにくいと思います。eyeglass

 

 一度、経済学という世界から一歩引いて、経済学の基準になっている「お金」というものが、「そもそも何だっただろうか?」と考えてなおしてみると、一段視野が大きくなるので、そうしたら現実の経済活動というものも、視界に入ってくるのかも知れないと思います。shine



追記です。(2012年3月2日)

 

 この記事の青い文字の部分は、「少し、書きすぎてしまった」と翌朝になってから、本人も思いました。経済史の授業のことなどを思い出してみると、モノ作りのお話ばかりで、ノートをとることも大変だったという覚えがあります。人口とか、人の移動とか、生産技術の発展とか、ちゃんと経済学も、実体の世界の研究もしてました…。^^;

 

 でもきっと、この2つの世界の関係について、きちんと区別と整理がされていないまま、語られているのではないか?とも思いました。いつか整理したいです。

 

 

 

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ある天才商人の人物像

この記事は、本当は、昨日公開しようと思っていたのですが…。

 

 もう20年以上も前だと思います。

 

 あるマンガで、明治から戦前にかけての鈴木商店のことを知りました。そして天才商人と言われながらも、最後には大きな損失とともに鈴木商店を破綻させてしまった、金子直吉という人物のことを知りました。

 

 その頃、私はもちろん経済などということについて考えたこともなく、ただ単純なマンガの印象で、「金子直吉という人物は、米騒動の時に米を買い占めていたような、お金のためなら手段をいとわない、強欲な『商人』だったのだろう」と、思っていました。

 

 マンガ自体もこの人物のことを、あまり良い感じには描いていなかったと思います。最後の破綻も、まるで調子に乗りすぎていた人間が、結局破綻してしまったというような描き方だったと記憶しています。

 

 ところが、たまたま日本経済史の中で鈴木商店の名前が出てきたので、ある時ネットで調べてみると、その時の焼き討ち事件というのは、新聞社のデマによるものだったという情報が出てきました。

 

 そして、とりあえずはそのままWikipediaの情報を見てみると、私が思っていたこととは、まったく違った人物像が出てきました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E7%9B%B4%E5%90%89

 Wikipediaの情報が正しいとすると、この人物は決して「調子に乗りすぎた金儲け屋」、などではなくて、とても商業のセンスのある人物だったと思うのです。私が書いてしまうと、とても軽々しい言葉となってしまうのですが、野心や度胸、ものごとを画策する力もあり、自分が展開していた事業の社会的な意味も理解していたという、とても真っ直ぐな商人であり、素晴らしい事業家であったと思います。

 

 20年前の私はもちろん、ひとつ前の記事に書いたような、「単なるお金儲けと、商業は違うflair」という考え方など、持っていませんでした。ただただ子どもじみた正義感と、貧乏人ならではの、お金持ちを批判したい気持ちが先行し、とても自分には理解もできそうにない経済という世界の前で、やたらと感情的annoyでした。

 

 でもそれは、20年前の私だけなのだろうか?、と思います。

 

 経済と言うものがまったくわからずに、やたらとお金を儲けている企業や人物を、意味もなく批判し、妬み、感情的になって、世の中の安っぽい情報にふりまわされてしまうというのは、決して20年前の私だけではないと思うのです。

 

 経済のことなどまったくわからないがために、自ら自分たちの首をしめてくる政治家に投票してしまう、あるいはまったくギャンブラーでしかないような人物を、むやみに尊敬してしまうというようなことも、結局は同じです。

 

 「経済は難しくて、わからないimpact」。

 

結局このために世の中はいつまでも、不満と苛立ちと閉塞感の中で、やたらと何かに踊らされ、時代が進んでも相変わらず、あまりおもしろくない時代が続いてしまうのではないでしょうか?

 

 経済を考えるようになったことで、私は「人間のしごと」というものの、尊さshineを知りました。そしてこんなに混沌として見える世の中なのに、何が本当の「しごと」であり、何が「しごともどき」であるのかが、見分けられるようになりました。shine

 

 難しい経済学の本など、読めなくてもいいと思います。基本的な仕組みを理解するだけで、混沌とした人間の営みのなかから、たくさんの「素晴らしい行為shine」が見つかります。

 

 金子直吉さんという人物は、もしかしたら、ものすごく魅力のある人物だったのかも知れません。

 

 偶然にも、昨日が命日だったのでした。

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「商業」と「お金儲け」は別のことです。

 子どもの頃、誰か大人の人から聞いたお話です。

 

 「江戸時代の『士農工商』という身分の分け方の中で、商人が一番低いのは、農業、工業をやる人は何かを作るけれど、商人というのは何も作り出さずに、お金ばっかり儲けるから、形だけ一番下におかれたんだ」という俗説です。

 

 「商人は、お金儲けばかりをして、何も作らない」というのです。

 

 でもこの説明がおかしいということは、大人になって、自分で経済について考えてみれば、すぐにわかります。商業は、新しい形あるものは生産しませんが、消費者にとっての便利さを提供しています。商業は「形」を経ずに、直接「価値」を生産しているのです。

 

 もしもこの世の中に商業というものがなかったら?

 

 私は野菜と魚がほしい時、自分の家から農家の生産者のところに出かけて野菜を買い、海辺の漁師町まで行って魚を買わなくてはいけません。商業がなければ、スーパー・マーケットがありません。商業は、生産者と消費者をつなぐ働きをしています。

 

 だから商人がその働きの分として、仕入れ値と売り値の差額をもらうのは、当然です。商人はちゃんと「仕事」を提供して、その報酬としてお金をもらっているからです。

 

 本当に簡単なことですが、でも私たちの社会では、このことをよく認識できていないと思うのです。

 

 昔の商人には、あまりに商業のセンスがありすぎて、その結果「大金持ち」になってしまう人もいたようです。

 

 でもそれは、その人が強欲だから「大金持ち」になってしまったとは限りません。もしかしたらその人が、「その時代にちょうど良いタイミングで、人々が欲しているものを、ちゃんと買い付けてきて、売ってあげた」という、仕事の結果であるかも知れないのです。その人に、その時、世の中が望んでいる品物を察するセンスと、提供してみせる能力があったのです。

 

「お金が儲かった」というのはただの結果であって、その人がした仕事は、「品物の移動」です。

 

 「商業」と、「単なるお金儲け」の違いは、商業の場合は、その人が品物を移動させてあげた結果、世の中の誰かが、それまでよりも幸せになります。

 それにたいして「単なるお金儲け」だと、その人の行為の結果、その本人だけが幸せになり、そのほかの人は、あまり幸せになりません。

 「単なるお金儲け」だと、世の中に何も新しい「価値」を生み出さないからです。

 

 たとえば何かを買い占めて、世の中の人を困らせながら、お金を儲けるという行為は、商業ではなくて、「単なるお金儲け」です。これは「商業」ではありません。世の中に何も、便利さ幸福を提供していません。

 

 すごく簡単なことですが、でもこのことがきちんと理解されていないために、私たちの社会では、商業とか、組織の経営といった行為の価値を、きちんと認識できていないような気がするのです。

 

 shine「きれいなものが、きれいであることに気がつけない」という状態は、人間にとって、とても残念なことだと思うのです。shine

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いちごが高いです。

 今年はいちごが高いです。

 

 例年ならば今頃は、だいたい閉店間際のスーパーで1パック200円ぐらいの、小粒のとちおとめを買って、いちご大福を作るのですが、今年はいちごが高いので、まだ一度も作っていません。

 

 「どうしてこんなに高いのかしら?」とネットで調べたら、2つの説が出てきました。

 

 ひとつは重油が高くなっていて、ハウスの暖房にお金がかかり、その結果高いという説です。

 

 もうひとつは、気象の異常のために、生産量が少ないという説です。

 

 それで、どちらにしても、私としてはもんくを言いたいです。

 

 地球はいつまでも化石燃料に頼らないで、もういいかげんに、ほかの安全なエネルギーを試みるべきだと思います。タンカーの事故が起こるたびに海が汚れてしまうし、値段もやたらとふりまわされるので困ります。いつまでもその切り替えを怠っているから、とうとう私がいちご大福をたくさん食べられなくなったじゃないですか。(!)

 

 そしていいかげん、環境につらくあたる経済はやめてほしいです。企業の行動と異常気象の因果関係ははっきりしないとしても、空気を汚したり、水を汚したりして、地球に影響がないはずありません。

 

 それでなくても私は、きれいな海でシュノーケリングをするのが好きなのですから、地球を汚されるととっても迷惑です。fish fish fish

 

 ですから私は自分のシュノーケリングの楽しみ♪と、毎年いちご大福♪のためにも、「この地球の経済をなんとかしなくては!」と、今日もまた決意を新たにしたところです。\(^0^)/

 

 それにしても、いちご大福。自分で作れば少なくとも、1日に3個は食べられるのに…。

 

今年はもうちょっと様子見です。(;;)

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ヴィジョン

 夢があります。

 

 私たちが生きている世界には、いろいろな「しごと」があってその多くは、ありふれた、一見誰でもできそうな仕事です。

 

 たとえばお掃除という仕事。

 

 スーツを着ているおエラい人たちから見れば、誰にでもできそうな仕事に思えるかも知れません。

 

 でも、その現場を見たことは、ありますか?

 

 本当に短い時間で、限られた空間をピッカピカにしてしまう、無名の「プロフェッショナル」がたくさんいます。そしてその人たちはたいがい、汗だくです。

 

 料理人さん、美容師さん、販売員さん、運転士さん、事務員さん。世の中にそれだけ必要とされているからこそ、たくさんの人々が就いている仕事ですが、そういった仕事の多くは、あまりお給料がよくありません。

 

 私の夢は、そういったありふれたお仕事をしている人たちが、安心して十分なお給料を得られる社会を実現することです。

 

 時間どろぼうにぬすまれた時間を取り返し、誰もが自分の仕事を愛しながら、心を込めたお仕事ができる社会を現します。

 

 お掃除でも、お料理でも、そのほかどんな仕事でも、やたらとせかされることなく、適切なスピードで仕事ができる社会になれば、そうしたお仕事の質が上がります。

 

もちろん、過酷な長時間労働など、なくなります。

 

 そうなれば働いている人たちが楽しいので、みんなが気持ちのいい社会になると思います。

 

 そういう社会が実現したら私はいつか、その街のどこか、通りに面した明るいテラス席で5月のある日、とびっきりおいしい2段重ねのアイスクリームを、コーンで食べるんです♪

 

 すっかり、おだやかな表情で街を行く人たちを見ながら「良かったな♪」と、5月の日差しを浴びて、アイスクリームの甘さにうっとりするのです。

 

 時間どろぼうはみんな消えちゃったので、もういません。

 

 レモン・シャーベット、チョコレート系ナッツ入り、ベリー系、ラム・レーズン…。

 

その時のフレーバーはまだ、決めてありません。
*^^*

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その先にあるもの

 私はこのブログのほかにもうひとつ、心やスピリチュアルをテーマにしたブログを書いています。この記事はもしかしたら、そちらのブログに書く方がふさわしいのかも知れません。でもいちおう、経済のお話です。

 

 2月3日の記事で、「やっぱり、世界は変えなくてもいいと思います。」という記事を書きました。その記事にコメントをいただきまして、そこからまた少し考えが進みました。
http://go-go-lemming.cocolog-nifty.com/okanetojikan/2012/02/post-323b.html


 この記事を書いた時、どうして私がそのようなことを思っていたかと言いますと、実はこの時、記事を書いていた、私自身の気持ちがそうだったからなのです。

 

 私はもうこの5年ほど、この「エンデの遺言」という思想を追いかけていて、それはゆっくりと前進しながら、でもおそらくあと5年ぐらいもずっと、自分を投じてゆけるだろうと予想していました。

 

 でも最近、この「エンデの遺言」から見つかった答えと言いますか、現状の経済の解決策が、あまりにも簡単であることに気がついてしまいました。そうしたら「こんな、簡単すぎることが世の中に広まってしまったら、地球の経済なんてすぐに変わってしまう!」と思ったのです。

 

 そうして、すっかり経済の諸問題が解決された地球の状態を、想像してみました。

 

 そうしたらなんだか地球という星は、あとはもう発展するばかりで、「なんだか、ツマラナイなぁ」と思う自分がいて…。

 

だから「世界は、変えなくてもいい…」。^^;

 

(誰にたいしてなのか、自分でもよくわかりませんが、)不謹慎な思いをスミマセンm(_ _)m、です。

 

 これが、その記事を書いた理由の半分です。でもあともう半分ぐらい、理由があります。

 

 もしもエンデが示していった経済の話が、本当に簡単なことだとして、それを、たとえば地球上の経済問題の解決を願っているという人々にお話しした場合、どうしてか「とりあげてもらえなそうだ」と、いう気がしたのです。

 

 世の中には、「経済とは難しいものであって、そう簡単にわかるものでもないし、変わるものではない」という、ものすごく強い信念があるのだと思います。それでなくても人間はたいていの場合、変化が嫌いだと思うのです。「見知らぬシアワセよりも、慣れ親しんだ不幸♪」ではないかと思いました。

 

 だからそういう石頭(いしあたま)さんたちのためにも、「やっぱり、世界は変えなくていい…」(^^;)

 

 でもそれは結局、私自身の心がそうだっただけかも知れません。

 

 昨年のスピリチュアル・アートのレッスンで、先生から言われた言葉を思い出しました。私が描いた絵を見て先生は、「まだ、たとえば太陽と雲などが同時にある時に、雲の方を見る癖がある」とおっしゃいました。

 

 それは「だから運命にも、雲の方が現れてくる」ということです。ずいぶん時間をかけてきているのに、私の心境がいつまでも同じ場所に留まっていて、なかなか先に進みませんでした。光の手前で止まっていて、なかなか光の方向に飛び込まないのです。

 

 「幸せになってみて、そこからスタートするものもあるのですよ」という、先生の言葉を聞いた時、自分の中に何か、はっとするものがありました。

 

 もしかしたら、地球の経済も同じかも知れません。

 

 その先にあるものは、見えない場合もあるのでしょう。でも進んだ先が、また新しいテーマの「スタート」であるならば、進んでみた方が楽しいと思います。(^^)

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2つの物語から

 最近、ある有名な2つの物語のシーンにハマっています。

 

 ひとつは「星の王子さま」(岩波少年文庫2010)の中の、バラの花の台詞です。

 


 「あたくしのもといた国では…」と、バラの花は王子さまを困らせてやるために言うのです。バラの花は、王子さまのサービスが足りていないかのように文句を言い、王子さまをすまない気持ちにさせるために、わざと、です。

でもこの台詞は、この先が続きません。なぜならほかの星にいたのは、バラの「花」ではなくて、「種」だったからです。だからバラの花は、種だった時のことが思い出せなくて、あとはわざとせきをしてごまかします。それを見て王子さまは、ますますすまない気持ちにさせられてしまいます。

 

 甘え方がとっても下手だったバラの花…。

 

 バラの花のそういう態度が王子さまを、ほかの星の旅へと向かわせてしまいます。

 

 私も、大切な人の前では絶対に、そういう態度はとらないように気をつけなくては…。(^^;)?

 

 ところでこの台詞、私も時々本当にそう言ってしまいそうになることがあって困ります。

 

 「私がもといた星では…」と、時々言いそうになってしまうのです。

 

 うーん。星の名前は思い出せませんが、とにかくこんなに、地球ほど騒がしくなかったことは、たしかです。なんだかいろいろなことが、うまくいっていました。(^^)

 

 私がハマっているもうひとつの物語は、「続あしながおじさん」です。(遠藤寿子訳 岩波少年文庫3027 *こちらはもう販売されていないようです。)

 
「あしながおじさん」の物語は、ジューディという孤児院育ちの少女が、自分を大学に行かせてくれた、会ったこともない慈善家の理事に、手紙で近況を報告するというお話です。ジューディは最後には、あしながおじさんとハッピー・エンドです。

 
そして「続あしながおじさん」というお話は、ジューディの大学時代の親友であるサリーという女性が、ジューディがもといた孤児院の院長になって、孤児院を改善してゆくというお話です。サリーはジューディと違って、生まれながらのお金持ちのお嬢さんです。

 

 そのお嬢様が、ちょっとしたなりゆきで孤児院の院長となった時。サリーは快活で、なんでもユーモアたっぷりに、はっきりと言う性格の女性です。サリーがジューディにあてた手紙の中の、はじめて見た孤児院の様子の表現を見てください。

 

(引用はじめ)

 「ジューディ、あたしは、こうまで何から何まで、みっともない、汚い場所がこの世界にあろうとは、ほんとうにいままですこしも知りませんでした。」

(引用終わり)

 

 あまりにものすごい言いようです。でもなんだか、カラッとしていて、思わず笑ってしまいます。サリーはこれからこの明るさで、孤児院の大改革を始めて行くのです。

 

 ところでこの2つのシーンを素材にして、私の中で今、ちょっとした文章のいたずら♪を計画しています。この素材はちょっと、おもしろいかもしれません。(*^^*

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最近、ますます黒いんです…♪

 最近、地球外目線が本当に激しくて、ものごとの見方がますます地球の常識とずれてきています。心に思ったことをそのまま口にしてしまうと、本当にブラック・ジョークというか、もう「真っ黒け!」なので、とってもキケンです。

 

 株式市場における株の売買というものが、単なるギャンブルでしかないということには、以前から気づいていました。競馬をする時に、馬についてよく研究してから馬券を買おうが、馬の名前で判断して馬券を買おうが、どちらの買い方をしたって、結局ギャンブルであることは変わりありません。その人の努力とは関係なく、当てれば儲かるのは同じです。そして、株だって結局同じです。

 

 違いと言えば、参加する人たちの服装や、教養や金額のレベルがちょっと違っていて、それから使う言葉が違う程度です。誰かが株や競馬で大儲けをしたとしても、その時その人が、世の中の役に立つ何かを生産したからというわけではありません。参加者の誰かの損と対象に、その人がトクをしているだけです。

 

 と、まぁ、そこまではずいぶん以前から気づいていましたが。

 

 実はだいぶ以前から、それよりももっと、もっとブラックなことに気がついていて、「どうして誰も言葉にしないのだろう?」と思っていたことがあるのです。さすがに私も、このことを言ってしまうのは、とても躊躇してしまうのですが…。

 

 競馬は、馬がトラックを一周する競争の結果にたいして、自分の予測が当たるか、当たらないかを賭けるギャンブルだと思うのです。

 

 でも、でも株って?

 

 もしかして、人間が経営している企業が、将来どれだけ利益を出すかを予測して、それからほかの人が、そのことをどう予測するかをさらに予測して株を買い、将来、自分のその予測が当たるか、当たらないかを賭けているギャンブルではないかと思うのです。当たれば儲かって、はずれたら損をする。

 

 競馬と違うのは、レースがエンドレス・レースであることと、走るのが馬ではなくて、企業という人間の集団であることと…。

 

さらにもっと言ってしまえば、その企業の利益を生み出す労働者たちは遊びではなくて、自分と家族の生存のために働いているということぐらい? おまけに利益と同時に、世の中の役に立つ商品も提供しながら…、ですか?!

 

 これってもしかして、人間が、人間の生存をかけた活動を材料にして、「賭け」をしてません?^^;

 

 私としては、「地球の文化、すごい、おそるべし…」と思っているのですが。

 

でも、でもこんなブラックすぎること、あまりにすごすぎて誰にも言えません。どうしましょう?!

 

誰にも言えませんので、とりあえずこのブログに書いときます♪\(^0^)/

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アムール・デュ・ショコラ

 仕事の帰りにわざわざ寄り道をして、日本橋タカシマヤのアムール・デュ・ショコラという催事に行ってきました。

 

*アムール・デュ・ショコラのサイトはこちらです。
http://www.takashimaya.co.jp/store/special/amour/chocolatier.html

 

 バレンタイン用のチョコレートならば、ほかの場所でももちろん買えるのですが、わざわざこの場所にしたのには理由があります。この催事では、私がひっそりと応援しているTABLE  FOR  TWO プログラムのチョコレートが買えるからです。

 

TABEL FOR TWO プログラムのサイトはこちらです。
http://www.tablefor2.org/index.html


 クリスマス、バレンタインデー、結婚式♪、そのほかシアワセを意識する時こそ、TABLE FOR TWO!です。
(^0^)

 

 行ってみたら、すごい人でした。出ているチョコレートの種類もすごいです。そして、ステキなチョコレートがたくさん!です。

 

試食はおいしくて、うれしいのですが、とにかく混雑で疲れます。

 

 友チョコ、感謝チョコ、本を借りているお友達へのお礼チョコ、それからついでに自分チョコ(なぜかアクセサリーのおまけつき?)♪♪♪

 

 それにしても、人へのプレゼントはどれも意味があるものなので、お値段の問題もあり、なかなか選ぶのは難しかったです。配送もちゃんと手配して…。

 

 気がついたら、TABLE FOR TWOのチョコレートがひとつも選べずに、全部買い終わってしまいました。(!)

 

 そこで最後に、会場に出ていた赤坂柿山のハートせんべい5個入りを買いました。

 

このおせんべいは、本来525円の商品に、TABLE FOR TWO分の20円を上乗せして、545円で売っています。ですので本当は、私の「ただでは、寄付はしない主義」からはずれています。

 

 でも今は、これしか方法がありません。せっかくTABLE FOR TWOのために日本橋まで来たのですから、こうなったら発展途上国の子どもの給食1食分でもプレゼントして帰らなくては、ここまで出て来た意味がありません。おせんべいはもちろん、職場の義理おせんべい?に配れます。

 

 お買いもの自体が楽しかったので、ぜんぶまぜこぜでOK!ということにしておきましょう!、ということで。

 

ようやく楽しいお買い物の終了です。(^0^)

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子どもの数

 私自身には子どもはいないのですが、私は子どもの数が多い家庭というのがちょっと苦手で、以前から少子化という現象についても、それほどよくないこととは思っていませんでした。

 

 私はおっとり型の性格なので、子だくさんとか、にぎやかすぎる大家族は、あまりむいていないのだと思います。子どもは少人数の、小さな家族の方が、子どもひとりひとりの気持ちを大切に接してあげることができて、いいのではないかな?と、なんとなく漠然と思っていました。

 

 でも最近、その考え方が少し変わりました。

 

 親戚の新年会があって、そうしたらめずらしく5人兄弟プラス5人の子どもで、合計10人の子どもが集まっている場面を見たのです。年齢は15歳から1歳まで、ばらばらです。ひとつの部屋に、それだけの子どもが集まっていると、ちょっと壮観な感じでした。

 

 でも見ていたら、意外なことに気がつきました。

 

 子どもたちは5人兄弟を中心に、しょっちゅうかまい合って、動物みたいによくくっついて遊んでいるのです。年齢が上の子どもがちゃんと、自分より小さいこどもの世話をして、5人兄弟の一番下の子どもも、自分より小さい1歳児にちゃんとかまっています。

 

 子どもの性格にもよりますが、ひとなつっこい1歳児は、あちこちに移動しながら大人、子ども問わずに、いろいろな場所で抱っこされ、すっかりご満悦の様子です。

 

 「いい場面だな」と思いました。

 

 大家族というのは、(その状況にもよるのでしょうが)小さい子どもが抱っこしてもらえる場所が、いっぱいあるわけです。核家族の中の一人っ子、二人っ子では、なかなかそうもいかないのではないかと思います。

 

 小さい子どもにとって、ほかの人の体温を感じていられるということは、とても大切なことだと思います。

 

 資本主義下では、先進国では少子化、発展途上国では人口増加傾向のようですが、子どもにとっては、いったいどういう状態がいいのかな?と、少し考えてしまいました。

 

 どちらにしても、安全に生きられることは大前提です。

 

 経済が資本主義でなくなった時、地球の子どもの数と言うのは、いったいどのぐらいに落ち着くのかな?、と思います。

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やっぱり、世界は変えなくていいと思います。

 1月23日には、NHKの番組にすっかり感化されて、このブログに「世界を変えちゃおう♪\(^0^)/」と書きました。
http://go-go-lemming.cocolog-nifty.com/okanetojikan/2012/01/post-cbfc.html

 

 でも2月3日の今日はもう、「べつに変えなくてもいいや♪」と思ってマス。^^;

 

 私はやっぱり「流れに逆らう」ということが、好きではないのです。

 

 地球を見ていると、「貧困はよくない」と言うけれど、それならば本気で貧困問題について解決しようとしているのかと見てみると、私にはそうは見えないのです。

 

 そのようなことを書くと、本気でボランティアとか寄付などの活動をしている人たちに叱られそうですが、私たちの経済はもともと、「貧困を作り出す経済」でしかありません。それが、現状の地球の経済の「流れ」です。

 

 その中で、下流から水を桶ですくって、上流に流し返すということをしてみても、それは流れに逆らうことであり、きりがないのだから、私ならしないと思います。それよりも、水の流れをもとから変えて、「貧困を生まない経済体制」を考えた方がいい。

 

 エンデが見ようとしていた経済社会は、私の中でほとんど完成していて、私は今、表現する方法に困っているだけです。本当は、表現する方法を探るために、どなたかに議論につきあっていただきたいと思う状況です。

 

 今はもう、私の中にあった「情熱」のようなものが静かに落ち着いて、それほど激しい思いはわきません。私は知りたかった間だけ、激しく燃えていたようです。

 

 知ってしまったら、静かになってしまいました…。

 

 私自身は、痛ましい出来事は極力見たくありません。でも人間の心というのは、けっこう不思議なものだとも思うのです。

 

貧困が存在することで、自分の中に愛があることを確認している人たちも、存在すると思います。何かと戦うことで、自分の中の正義が確認できるという人たちも、いると思います。その人たちには自覚はないとしても、人間には、そういう「学び」のようなものも、あると思うのです。

 

この世の不条理を正すことで、人間の知恵を確認するという人たちも存在していて、おかしくないと思います。

 

ボランティアとか、そういう人たちの活動を否定するわけではありません。ただ自分の中に、そういう方向の情熱が湧かないだけです。

 

 私が今、見たい愛は「静かで、柔軟で、知恵がある愛」です。

 

 今はただ、自分が生きている間に、エンデが見ようとしていた経済社会のことを、ひっそりと何かに書きつけてゆければいいなと思います。やっぱりひとりでも、ふたりでも、私が見たことを伝えてゆければ、満足です。

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ある経済思想史の授業

 ある大学で模擬授業を受けてきました。科目は経済思想史だったのだと思います。

 

 短い時間だったのですが、いろいろなことが新鮮に思えました。

 

 たとえば、アダム・スミスは新自由主義者たちからはずいぶんかつぎ出されていましたが、スミスが生きていた時代はまだ産業革命前だったので、スミス自身はマルクスが見ていたような資本主義の状態を見ていなかった、というのです。

 

 言われてみれば、そのとおりだったと気がつきます。

 

 そうなるとその時まで私がずっと感じていた、「本などで伝わっているアダム・スミスの人柄と、新自由主義の主張はどうも合っていない」という違和感が解決します。

 

 アダム・スミスの名前を使って新自由主義を主張する人たちは、歴史というものは、その時代背景と合わせてものごとを考えなくてはいけないということを、知らない人たちなのだと思いました。

 

 (私に言われたくはないかも知れませんが、)ちょっと不勉強な人たちなのだと思います。

 

 そのほかにも、マルクスは社会主義のモデルを提示してあったわけではないということも、新しく知りました。

 

 どおりでマルクスがその時代の社会主義者たちの行動を見ながら、「あれがマルクス主義であると言うならば、少なくとも私はマルクス主義者ではない」というようなことを、言うわけです。モデルの提示がなかったので、社会主義者たちは勝手に動いてしまったのかも知れません。

 

 そういう風に、簡潔な言葉がちょうど良い感じで、「ああ、そうだったのか」と、私の頭の中にあった、小さな疑問をすっきりさせてくれました。

 

 最後にその先生が、経済学の目標についてお話をして下さったことも、信頼できる感じで良かったと思うのです。

 

 経済学の目標というのは、医学の目的が、人の病気を治すこととして定まっているようなものとは違っていて、さまざまな目標があてられているそうです。

 

 そうなると、私はこのブログを書く時にもずっと、「経済学の目標は、世の中の人全員が安心して生きられるような社会にすることでしょう?」と勝手に思っていたのですが、それもまた単なる、私の決めつけでしかなかったのだと思い直します。

 

その考え方は、私が思いこんでいたこととは違っていましたが、悪い感じはしませんでした。

 

かえって正直な感じがしましたし、私としては「本当の勉強」ができそうで、楽しみな気持ちになりました。

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