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2012年3月

地域通貨のアイデア例、ひとつ♪(1)

 地域通貨に関して、ちょっと考えていたアイデアがありました。

 

 世の中にはきっとたくさんの中小企業があって、その中にはお金に困っている企業sweat01もあって、その一方で、まだ使える商品をたくさん廃棄せざるを得なくなっている企業sweat02も、たくさんあるのではないか?と、考えたのです。

 

 そうしたら、もしかしたらその廃棄せざるを得ない商品を、お金に困っている企業に渡してあげることで、お金に困っている企業の方が、費用の節約になって、ピンチを乗り越えられるということも、あるのではないかしら?と、思ったのです。

 

 なんといってもshine経済の主役は、お金ではなくて、実体のある生産物やサービスなのですから!shine

 

 そうしたら今日、たまたまネットの中で、ある記事を見つけました。状況は、ちょっと違うのですが、やっぱり現物を直接もらうことで、ピンチを回避するという方法は、あり得ることではないか?と思うのです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1452109779

 

 ということは、そういう風に、世の中で廃棄の危機にさらされている商品を、たとえば地域通貨のネットワークを介して、お金に困っている企業に直接渡し、(もちろん太っ腹に、地域通貨など介さず、直接渡してあげて、「礼はいらないよ」、なんていうのもカッコよくていいのですが…、heart)お金に困っている企業の方は、その商品を使って支出を抑え、自社の商品は普通に売り上げて、利益となる法定通貨の量をふやし、お金のピンチを切り抜ければ…。flair

 

thunderthunder

 

 なんとなく、いいアイデアではないかしら?と、思うのですが。heart02*0*heart02

 

 何か、問題って、起こるかしら?shine

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「経済」って、こういうことだと思います。

 私が自分で考えて、理解した「経済」について、書いてみます。

 

 経済というのは、人間が生きていくために必要なもの、あるいは「これがあったらいいなcarairplanepc」と思うもの。そういうものをみんなでどんどん作り出し、社会の中でお金を使って交換し、手に入れた後はそれを使うnote

 

使うことによって、例えば食べ物であれば、食べることによって、人間は明日を生きられる。音楽であれば、それを聴くことによって、人間はいっそう楽しくなる。

 

 ただ、その繰り返しだと思うのです。shine

 

 あまりにも単純すぎる考えでしょうか?

 

 毎日毎日、それを繰り返すことによって、人間は未来shineへどんどん生きている。ひとりひとりは、ある程度生きれば死んでしまうけれど、人間は入れ替わり、立ち替わり次の世代が現れて、前の世代が生み出してきた結果を受け継ぎ、人間という存在をつないでゆく。

 

 動物は、例えばサルは、そうやって1000年存在をつないでも、おそらくその生き方にはたいした変化は起こらない。だけど人間は、1000年もその存在をつなぐと、1000年前とはまったく違った社会を作り、まったく違った生き方をする。phoneto

 

 人間はきっと1000年もの間、同じ生き方を繰り返すことの方が、難しいのだと思います。生産技術の向上は、おそらく人間の「自然なあり方shine」なのだと思います。

 

 そういった、何千年もの視点から考える、大きな規模の営みが「経済」なのだと思うのです。

 「経済」というものが、そういうものだと考えると、何かを生産する時は、その時に社会が必要とする量だけを生産すればいい。無駄にするほど作ってしまうのは、生産の手間も増えるので、愚かです。

 

 そして技術革新ということを考えれば、生産する手間は、時代が進むほどらくになり、人間の生活はどんどん快適で、楽しいものになってゆく…。heart

 

 はずなのですが。

 

 (あれっ?!)

 

 実際の地球はそうなっていません。毎日捨てるほど何かを生産し、人間の労働時間が減りません!sweat01

 

 (どうしてなの?!sweat01

 

 「それは、私たちが交換に使っている『お金dollar』に問題があるからではないか?」と、ミヒャエル・エンデは、控えめに遺言したのです。

 

 本来、経済の一部でしかなく、しかも人工的な存在であるはずの「お金」というものが。

 

 本来は、人間同士の交換を助けるために存在していたはずshineの「お金」というものが、どうもなにやら、うまく働いていない。

 

 そのために私たちの世界は、何かおかしなことになっているのではないか?clock

 

 たぶん、そういうことだと思います。

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「経済」を知らずに学んでも…

 ひとつ前の記事で、上杉鷹山のことを書きました。

 

 私は学生の頃、理科系の科目はもちろんですが、その上、社会科もたいして好きでなく、とくに「政治、経済なんて、絶対に一生、自分には縁がないでしょう!」と思っていました。ですので授業の間は、いわゆる社会科の科目は、とにかく機械的な暗記の時間でしかなくて…。sleepyclock

(もうこれ以上は、書けません…。^^;)

 

 でも最近になって思うのは、それは「経済」というものが、わからなかったからなのだと思います。

 

それも経済というものが、「市場がどうのこうの」とか、「限界効用がどうのこうの」とか、そういうことがわからなかったのではなくて、単純に「経済って、何をしているの?」という、それがわからなかったからだと思うのです。sign02

 

だから、地理も歴史も公民も、その起こっている出来事の意味がわからなかったのです。

 

ちなみに私がここで、「わかった!shine」と思っている経済は、学校などで教わる、「教科書的な経済」ではなくて、私が自分で調べて、自分で理解した経済です。

 

でもそれがわかってから、いわゆる社会科の科目というものが、本当におもしろくなったのを感じます。heart01

 それはたまたま、仕事の場で学生用の教材を扱う機会があり、そのように感じている自分に気づきました。

 

地理で出てくるいろいろな土地の気候や、産業、特産品、そして歴史に出てくるいろいろな出来事や戦争など。そうしたものは「経済とは何をしているのか?」がわかれば、もはや機械的な暗記ではなくなって、とても立体的な、人間の意図が写し出された物語として、展開し始めます。horse

 

歴史の中の昔から、世界中のあらゆる場所に、そして私たちが生きている、本当に普通の日常生活の中に、「経済shine」という活動がありました。

 

だから「経済とは、何をしているのか?」を知らずに、中学生や高校生が地理や歴史を学ばなくてはいけないということは、とても残念なことだと思います。

 

自分で考えて、「経済という活動が何をしているのか、わかったshine」と思っている私の、もうひとつの新しい発見は、経済というものがわかると、人間に対する見方が変わるということです。shadow

 

ひとつ前の記事で書いた上杉鷹山などもそうですが、歴史の中に出てくる人物が、その知名度とはそれほど関係なく、「誰の幸せを考えて生きた人なのか?shine」という、そういうことがよくわかるようになります。

 

経営者と言う人たちについても、ただの野望や強欲だったのか、それともシンプルな経営の追求shineだったのか、そういう違いが見えてきます。

 

そうやって世界の情報の中に、あるいは歴史の中に、その生き方を見て、shineドキドキshineするような人物を見つけていくのは、私の楽しみのひとつです。note

 

経済というものを知らなかった時の自分を思いますと、それはしかたのなかったことではあるのですが、それにしても、「なんだかもったいなかったなぁ…」と思います。

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上杉鷹山という人のお話

 まったくお恥ずかしい話なのですが、「私は経済に関心があります!」などと言いながら、上杉鷹山という人のことを、全然知りませんでした。

 (cherryblossomむかしむかし、高校生の時はまさか、自分が将来、経済などというものに興味を持つとは夢にも思っていなかったので…。そういう名前は、記憶の片隅にもゴザイマセンデシタ。^^;)

 

たまたま先週、NHKで放送された歴史秘話ヒストリアという番組を見て、「すごい人だったんだ!」と、思いました。

 

「すごい」と思ったところはたくさんあったのですが、中でも私が「一層すごい!」と思ったのは、米沢で生まれた透綾(すきやshineという美しい絹織物の開発のお話でした。その頃の米沢藩は多額の借金を抱えており、藩の特産品を必要としていたそうです。

 

その時に鷹山が考えたのは、「養蚕は藩が積極的に普及させ、農民が生糸を作り、それを武家の女性たちが織る」という仕組みです。

 

もともとこの人の場合には、武士だから、農民だからというくくりに、あまり縛られず、「経済なのだから、資源として生かせるものは、ジャンルにこだわらずに役立てよう」という発想があったのではないでしょうか?(この頃に「経済」という言葉があったかどうかは、不明ですが。)

 

絹織物の開発には、京都から技術者を呼んで最新の技術を取り入れ、そうこうしているうちに、下級武士の中から透綾の技術shineが生まれたそうです。その結果米沢藩は、多額の借金も無事に返済したそうです。

 

上杉鷹山という人は、人柄も良かったのでしょうが、それだけではなくて、頭も良かったというか、「とにかくすごい人」だったのだと思いました。

こちらのサイトに、とても詳しく紹介されていました。
http://ameblo.jp/e-fh/entry-11200021608.html

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結論です。(その3) 経済の概要と、減価について

 昨年の記事で「経済の二重構造」というスライドを作りました。その時に「生活循環shine」というスライドも作りました。

 

 これは、お金というものへの注目から、ちょっと視点を大きくして、「経済って、いったい何をしているのだろう?」という視点から、人間がしていることを観察したものです。ロビンソン・クルーソーからはじまって、お金を使った交換が出てくるあたりまでが、「経済の概要shine」です。

★★★★★★★


 人間はひとりでいても、自分の食べ物を手に入れて、それを食べることで、未来に生命をつなぎます。体を守る衣服を作って、未来に生存をつなぎます。住む家を作って、ゆっくり眠ることで、生存を未来につなぎます。

 

 食べ物を手にいれたり、衣服を作ったり、住む家を作ったりすることは「生産」です。

 

それにたいして、食べ物を食べたり、衣服を着たり、作った家に住んだりするのは、「消費」です。

 

「生産」と「消費」はつながっていて、どちらかが存在しないと、人間は死んでしまいます。(ひとりの人間が、無人島で食べ物を探しに行かれなくなった時、その人はいずれ死んでしまいます。)(「生産」しなくても、最初から食べ物があれば別ですが…。)

 

 「死ぬ」ということは、その人の明日が来ないということです。つまり「未来の生存に、つながらない」ということです。

 「生産」が先にあり、「消費」はあとからです。

 (ちなみに「生産」と「消費」は、動物の世界にもあるのかも知れませんが、おそらく経済の世界の言葉だと思うので、今は「動物にも生産と消費があるのか?」ということについては、ふれません。)

 
ひとりの人間の、1日の行動の中に「生産」と「消費」が存在し、それは「眠り」で区切られます。sleepy

 人間は毎日起きて行動し、夜は眠りながら、この「生産」と「消費」のサイクルを、過去から未来へと回転させています。これが「生活循環」です。clock

002_2

 

 これがひとりの人間の中だけで完結している時、それは「経済」とは言えないと思います。そういう人間がたくさん集まっていたとしても、それはロビンソン・クルーソーの集合に過ぎず、そこには「生産」から「消費」はあっても、「経済」は生まれていないと思います。

★★★★★★★

 「経済」が生まれてくるのは、「生産」と「消費」の間に、「ほかの人間が行った生産との、交換」が始まる時からです。それは同時に、分業と協業が生まれる瞬間です。

003_8

 

この瞬間から、それまでばらばらだったロビンソン・クルーソーの集団は、複数の生活循環が重なった、社会的な生活循環を回転させることになります。


 「交換」が成り立つのは、誰かが生産した結果が、ほかの誰かにとって、「交換してほしいほどの価値がある」からです。つまり、その人が生産した結果は、ほかの人にとっても役に立つものであり、交換してもらうだけの「価値」があるからです。libra

 これが「経済」という活動なのだと、私は思います。shine


 途中から、お金を使った交換が始まります。dollar


004_9

 でも、お金が生まれる以前から、人間の世界には「経済」という活動は存在していたと思うのです。shine

★★★★★★★

 ところで、このように人間が経済活動を行っている世界には、「減価」という現象が存在するねshine、と指摘した人物がいました。それがシルビオ・ゲゼルshadowです。flair

 そしてほかにも、この世界に「減価」という現象を認めていた人たちflairがいました。それは「会計」という行為をしていた人たちです。libra

 

 減価というのは、「何かの価値が減っていくこと」ですが、言われてみれば本当で、たしかに私たちの世界には「時間」というものがあり、その「時間の経過」とともに、あらゆるものが変化してしまうのです。clock

 

 せっかく「生産」した、「ほかの人にも役に立つ状態shine」も、時間の経過とともに、価値が下がってしまうのです。downwardright

 

 (たとえば、せっかく釣ってきた新鮮な魚fishも、時間の経過とともに古くなって、交換してもらえる価値libraが下がってしまうのです。downwardright

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結論です。(その2) 変化の段階について

 ひとつ前の記事に書いた、「スマートグリッド型電子マネー、のようなお金」というのは、地球上での生産物やサービスの交換にお金が使われている段階の、一番最後の段階です。

 この段階を超えると今度は、お金というシステムの運営そのものが面倒になり、地球から「お金」という概念は消え去ります。そこから先はもう、「shineお金を使っていない世界shine」です。

 

 でもその段階に至るまでに、変化の段階には何ステップもあります。その変化を、推測してみました。

 

 その段階的なステップの中で、とりあえず最初になされるべきことは、金利、投機、株式会社による配当金、株の売買(結局これも「投機」だと、私は思います。)といった、あらゆる資産運用が廃止されることです。

 これだけでお金はもう、生産物やサービスを交換する時の、shine価値を表示する数値shineでしかなくなり、お金の方が、実体のある生産の世界に属する状態に変わります。

 

(株式会社の配当金については、「その配当金dollarは、本当は誰が生産しているものなのか?」という問題に焦点をあてて、もう少し先の記事の中で整理します。)

 

 しばらくは、発行されているお金の量と、地球上でつねに発生し続ける、生産物やサービスの交換の総量が合わせられず、実際の生産物やサービスの価値に対する、インフレやデフレのような状態が起こると思います。sweat01

 

 次の段階で、インフレやデフレが起こる原因がわかるようになり、お金の方を生産物やサービスを交換する時の、価値の総量に合わせるべきだということが認識されます。この段階で、「個人の残高はどうあるべきなのか?typhoon」という問題にぶつかります。

 

 でもお金が、生産物やサービスの交換時の価値を表示しているだけの数値であることが認識されていば、「地球上で起こる生産物やサービスが交換される時の、価値の総量に対応した量のお金が発行されてあればよいのだ」という認識が生まれ、ひとつ前の記事で書いたような、「その都度発行」のお金になります。sign03

 

「そこにもう生産物があって、同時に、その生産物をほしい人がいるのならば、その人にお金の残高がなくても、新しくお金を発行してしまって、生産物を消費してもらった方がいいじゃないかflair」という発想に変わります。そうして、ひとつ前の記事に書いたような、実に「いいかげんsweat01」なお金が誕生します。

(交換時の値段の問題については、後で整理します。

 

ここまでくるともう、そのようなお金を管理していること自体が面倒です。というわけで、次の段階では、もうお金の使用は終了!bell

 

……。

 

(だってもう、テキトウでいいじゃないですか…?)
(^^;)

 

(でも、もう、誰もこのブログのことを、まともに考えてくれなそう…。)(;;)

 

 ただし、この段階に至るまでには、人間の心にたくさんの変化が必要です。ですから当分、と言っても、もしかしたら数百年ぐらいでしょうか?、「地球上にこのような変化は、起こらないでしょう」と、さすがに私も、思っています。snail

snail

snail

 

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結論です。(その1)

 まったく信じられないことかもしれませんが、エンデの示唆の先にあるものは、「スマートグリッド型電子マネー、のようなお金」です。(厳密に言うと、ちょっと違うのですが。)

 

 突拍子もない考え方だと思われるかも知れません。

 

 でも、おそらくそうだと、私は思っています。

 

 たとえば地球上のどこかで、自分が食べる量以上のニンジンを生産して、持っている人がいるとします。(もちろんニンジンでも、キャベツでもいいのです。)その人は、自分が消費する以上の量のニンジンは、誰かにあげたい、あるいは売りたいとします。

 

 そしてそこに、そのニンジンをほしい、食べたいという人が現れたとします。両者の希望が一致しました。

 

 その時ポンッ!shineと、突然お金が誕生し、そのニンジンの代金分の金額が、ニンジンを買いたい人から、売りたい人へと移動する。

 

そこで終わりです。

 

 お金が移動した後の、ニンジンを売った人の残高は、残ってもいいし、残らなくてもいい。どちらでもあまり、意味はありません。

 

 もしも残高を残しておくのであれば、その時には、誰がいったいどのぐらいの残高を持っているという、「残高へのとらわれ」は捨てるべきです。誰がたくさんお金を持っていてもいい、持っていなくてもいい。

 

 その時、そこに生産されてある生産物があり、それを消費したいと望む人がいる。それならばその生産物が移動して、消費されればそれでいい。生産物の移動を記録しておきたければ、お金を使えばいい。記録しておかなくてもいいと思えば、ただ、あげればいい。

 

せっかく生産したのに、誰にも消費されずに腐らせてしまうよりは、よほどいい。

 

それが「経済的」ということです。

 

 人間同士の関係では、生産物を生産して、ほかの人にあげた人は「貸し」を作った人であり、もらった人は「借り」ができた人です。その「貸し」と「借り」の関係を表す道具が「お金」でした。

 

 それはほんの少しだけ、たとえば職場で誰かから、旅先のお土産のお菓子をもらった時、「ありがとう」と言って、「いつかお返しをしよう」と思う時に、「もらったことを、覚えておこう」と思う感覚と似ています。

 

 記録をするために、お金を渡す。「貸し」と「借り」を表す瞬間だけ、お金が必要でした。

 

 そして表し終わったら、そのお金にはもう、それほどたいした役目はありません。

 

 個人の残高は、プラスでもいい。でも、マイナスでもいい。

 

 社会に生産された生産物があり、それを消費したいと望む人がいるのであれば、そこをお金によって、消費に導くだけでいい。個人個人の残高が、ゼロでなくてはいけないということはないのです。

 

たとえその人のお金の残高がマイナスであっても、社会がその人に生きていてほしいと思うのであれば、生産物を分けてあげていい。公平、不公平の判断は、お金の有る無しによって表示されるべきではなくて、お金とは別の面から見た、社会のルールによって表現されるべきなのです。

 

「残高はゼロであるべきだ」と主張できるのは、人類の一番はじめの一人の人だけです。あとは誰であれ、誰かの借りや、貸しの中に織り込まれた状態で生まれ、生きています。

 

どんな天才的な才能を持っている人でさえ、学校と家庭教師のみならず、社会にすでに存在していた無償の情報を栄養とせずに、天才の才能を発揮した人はいません。

 

 お金をこのように、取引の都度発行されるようにしておけば、お金と、実体のある生産物の世界の関係が、逆転します。

 

地球では長いこと、科学技術が未熟だったので、そのようなお金が作れませんでした。

 

電子マネーがようやく普及して、数字だけのお金が出てきました。でもまだ「残高へのとらわれ」が残っています。

 

ここに書いた考え方は、地球上の常識からは、あまりにも飛び過ぎていると、私も思います。でも、どうやらそこがこのブログの目的地のようです。

 

「エンデの遺言」からはじまった長い旅が、ようやく目的地を見つけたみたいです。まるでひとつの惑星から、ほかの惑星に飛んできたような旅でした。

 

いくつか、書き記しておかなくてはいけないことはありますが、でもあと少しです。

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仕事を愛する♪

 子どもの頃に見た「労働」という様子がとても怖かったので、私は長いこと、働くということについて、あまりポジティヴな見方ができませんでした。

 

 今どきめずらしいことかも知れませんが、ずいぶん長いこと「仕事というのは、生活の資を得るために、つらくても我慢をしながらやること」なのだと思っていたのです。

 

「仕事って、けっこう楽しかったりする?!shine」という気持ちを知ったのは、わりと最近のことなのです。

 

 職業と自分が合っていると、あまりその仕事がつらくない。むしろおもしろかったり、「もっとやってみたいな♪」という気持ちになるのですね。

 

 人間の才能は、おそらくひとりひとり、とても違っているものなので、世界中のすべての人が、「この仕事なら、やれるな♪ おもしろいな♪」と感じられる職業について、調子よく自分の仕事に専念したら?

 

 そしてその量がほどよく、決して疲れ過ぎない程度で終われれば?

 

 もしかしたら世界中が小さな音楽でいっぱいになるように、あちこちで「時間」の楽しいリズムが鳴り出すのではないかと思います♪

 

 自分の仕事を愛せていると、「もっといい仕事にしたい」とよく思います。そうしてその仕事の結果、誰かから「ありがとう」などと言ってもらえたりしたら、もう「shineとっても幸せ♪\(^0^)/shine」な気持ちになってしまいます。

 

 経済のお話とは関係なさそうに思いますか?

 

 いいえ、経済のお話です。エンデが見ていた、モモが時間どろぼうから、ぬすまれた人間の時間をとりかえしたあとの世界のお話です。clock

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ヒマラヤスギ

 通っていた通信制の大学の校舎が移転することになりました。

 

 その校舎には、もう行くことはないだろうと思っていたのですが、急に用事ができて、行ってきました。

 

 5月に写真に撮った大きな木に、また会えました。

http://go-go-lemming.cocolog-nifty.com/okanetojikan/2011/05/post-6ce7.html

 

 昨日も、雨でした。

 

 この校舎の教室で私は、いくつかの楽しかった授業を受けていて、そういう日々が結局は、このブログにつながってきています。

 

 仕事をしながら学ぶ日々は、休日がなくなってしまうので、体力的につらかった記憶ばかりですが、いつの間にか自分に合った科目の選択が上手になり、気がつけば心地よい緊張感とともに、自分の中に広がってゆく、新しい世界にのめりこむ時間と変わっていました。

 

 今は6月の教室の蒸し暑ささえ、楽しく、心地よく思い出します。

 自動販売機のコーヒーも、休憩時間につまんだチョコレートやクッキーも、薄暗い休憩所で蚊に刺されながら試験の時間を待った日のことや、図書館に残り、夢中になってレポートを書いた日のことも…。

 

 この木の名前は、たしかヒマラヤスギだったと思うのですが、本当にそうなのでしょうか。この校舎に詳しい保健体育の先生が、授業の中でそう言っていたような…。

 

 いつ来ても、この木が好きでした。

 

 雨の中、そっと幹にさわって言葉にならない思いを伝えようとしたら、「保存希望樹木」と書かれた札を見つけました。

 

 きっとほかにも、この木に特別な思い入れのある人がいるのでしょう。

 

 この木も、ほかの木も、たくさんの学生を見てきた木だから、本当はみんな、残しておいてほしいのです。

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地球の足跡

 昨年の大みそかの夜は、実家で姪っ子とテレビを見ていました。そのうちに姪っ子は寝に行ってしまい、私がひとり、リビングでテレビを見ていました。夜中の1時頃から、NHKの福島原発に関するドキュメンタリーの放送がはじまりました。なんとなくそのまま、見てしまいました。tv

 

 その時まで私は、福島原発の事故の原因というのは、おそらく20年ほど前に何かがあったのだろうと、思っていました。ところがそのドキュメンタリーを見てみたら、ものごとの大きな分岐点は、50年以上も前だったのだと思いました。

 

 1954年に第五福竜丸の事故があった後、日本国内では強烈な反核運動が起こります。ところがその時に、ある新聞社の社長であった人物が、世論を覆すための大きなキャンペーンを行い、世論をみごとにひっくり返してしまうのです。その後、原発は推進されるようになり、そこに商社が利益を求めて集まってきて…。

 

その時の原発の購入は、アメリカからのターンキー契約という、カスタマイズがほとんどできない形の契約でした。カスタマイズができなかったそのために、福島原発はわざわざ土地を掘り崩して、海面に近い高さに建設され、2011年3月11日、その場所を津波が襲った、というわけです。

 

 私が気になったのは、新聞社による世論を変えるためのキャンペーンと、当時の日本には原発を設計する技術もなかったがゆえの、ターンキー契約という契約でした。

 

 新聞社によるキャンペーンの時には、新聞社の社長でもあり、政治家でもあるひとりの人物が登場します。もう亡くなっているのですが、その人物の死後約40年がたってから事故が起こり、その結果、放射能の影響は今後300年…。

 

 この人の人生は、死後340年も地球に影響を与えていくわけです。

 

 歴史の教科書などには出てこない人なのでしょうが、「大人物…?」shadowというべきなのか、とにかく目を点にして見てしまいました。

 

 私は現在、特定の宗教団体には属していませんが、いちおう自分では信仰者だと思っています。そうするといちおう生きている間に、あんまり悪いこととか、社会とか地球に迷惑をかける生き方はしたくないな♪、と思います。shine

 

 幸い小人物なので、そういう心配もまったくないのですが、もしも社会に影響力があるような人間になってしまったら、できればケインズshineのように、自分が持っている才能とか立場は、世の中が良くなる方向に使いたいと思います。(←心配ないって!笑)

 

 それにしても、人間は大人物でも小人物でも、地球に足跡を残して、死んでゆくのだと思いました。

 

 考えてみればこんなに小人物でしかない私でも、研修講師と言う仕事の中で、受講者さんから時には「楽しかった」という、有難いお言葉をいただき、その時間を「楽しい時間にできた!」という小さな足跡をつけて、生きています。note

 

 その足跡は、波に洗われて消えてしまうような、はかないものかも知れませんが、それでもその一瞬は、そういう足跡をつけたのです。foot

 

 無神論者の人たちは、自分が死んでしまえば、何も残らないと思うかも知れませんが、それでもその人たちの足跡も、地球にひと時、残っていくのだと思います。

 

 地球の歴史というのはそのように、たくさんの足跡の結果です。きっと、器の大きな人ほど、なおいっそう、自分の才能とか役割りを大切にしながら、しっかりと歩いていかなくてはいけない場所なのだと思います。shine

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ボランティアについて

 私たちの社会では、ボランティア活動というのは、「いい人shine」が行うものだと考えられています。

 

 それは、ふつうの人ならば「お金がもらえるから、しごとをする」というところを、ボランティア活動をする人たちは、「お金をもらえなくても、社会に必要されている活動をする」からではないかと思います。

 

 実際にボランティア活動をしている人たちは、その分の自分の時間とエネルギーを使っているわけですから、やっぱり偉いheartと思います。

 

 でもこのボランティア活動ですが、実は社会全体のレベルから考えると、ボランティア活動という活動が存在する社会は、社会のレベルとしては、あまり高くないのです。つまり「未開の社会」とか、あるいは「あまり進化していない社会」ということです。

 

 今の地球の状態から先を見ると、ある程度進化した社会では、現実の世界で必要とされる財やサーヴィスは、すべて「報酬を得られるしごと」に変わります。

 

 たとえば地球上で大災害などが起これば、すぐに、それまでは会社単位で仕事をしていたとしても、災害の救助、復興にあたる事業が組織され、各会社や家庭から、参加する人たちが集まります。そうして復興に必要な間だけ、その事業は運営され、そこで働く人たちは、生きていくための報酬がもらえます。

 

 各会社に残った人たちは、その会社での仕事を続けることで、復興以外の基本的な、社会の日常的な運営を担います。そうやって被災地には行かない人も、社会全体で被災地を応援してゆくことができるのです。

 

 そうできるのは、すでにもう資本主義でなくなっているからです。

 

 すべての資産運用が廃止され、株式会社における配当金制度がなくなれば。dollar

 

またお金というものが、単なる数字でしかないと認識されていれば。dollar

 

企業はケチケチしながら、モノ作りやサーヴィスの提供をする必要がありません。また、株価を上げるための経営をする必要もありません。その時に持っている企業の力は思い切り、世の中を良くするために投入できます。お金でも、人材でも、商品でもです。

 

 だから地球上で災害が起こった時には、世界中の企業から、「うちは人材を出せます!」、「うちはお金を出せます!」、「うちは商品を出せます!」とどんどん声があがり、高度な情報のネットワークを利用して、世界中から救助と支援が集まります。heartheartheart

 お金が本当に「社会の血液」として、けがをした部分に急速に必要な栄養を運び込み、傷ついた細胞の修復を急ぐのです。hospital

 

 だから、わざわざ「ボランティア」という支援の仕方が、あまり起こらないのです。(もちろんその中でも、「報酬はいりません」という選択も可能です。)

 

 この状態は、資本主義である限りは、お金が動きにくいこともあり、起こりません。

 

 さらにもっと言ってしまいますと、より進化した社会では、今度は「お金」そのものを使いません。お金システムの運営そのものが負担なので、お金システムなどやめてしまって、そのまま生産物ごと、適当に(?)交換して社会を動かしてしまいます。libra

 

 おもしろいことにその社会では、働く人みんなが「しごとが好き♪」で、ボランティア(志願者)な気分なのです。なぜかというと、みんなが「自分で納得したしごと」を、自分で選んでいるからです。shine

 

 お金のためにと言って、楽しくないしごとを、我慢してまでする必要がないからです。note

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そういえば…

 ふたつ前の記事で、ちょっとした「書き過ぎ」をしてしまいました。

 

 それでちょっと反省をしていたら、そのおかげで、過去の経済学系の授業に関する、いろいろな場面を思い出しました。あとから考えてみると、「なるほど~♪」ということが、いくつか見つかりました。

 

 「そういえば…」という感じです。

 

 まずは「そういえば…」の、その1です。

 

 私は「エンデの遺言」に興味があったので、経済学系の授業を受けるようになったのですが、経済史の授業の時などに、あまりにモノ作りの話、つまり産業の話ばかりで、うんざりしてしまうということが、よくありました。

 

 たとえば産業革命の時代の、ジョン・ケイの飛び杼(「とびひって、何???)から、ジェニー紡績機、ミュール紡績機、などなど…。

 

 とにかく生産の技術が向上していったのだということは、わかるのです。でも「紡績」なんてやったことがないということもあり、それがどのぐらい、どうすごいのかが、よくわかりません…。ましてや生産技術の向上というのは、人類の歴史の中で当たり前すぎることなので、わざわざ覚えようという気持ちになれません。

 

 「こんなの、NHKの『プロジェクトX ~挑戦者たち~』みたいに、アニメーションとか入れて、説明してくれないと覚えられない!」と、思いました。

 

 よく考えてみると私は、日本経済史の時にも、同じようなことを思っていたのでした。

 

 モノ作りのお話だけを聞いていても、おもしろいけれど、そのうちに飽きてしまいます。

 

 そしてこちらは、「そういえば…」の、その2です。

 

 イギリスの金融業や、投資に関する授業を受けたことがあります。

 

 こちらはとにかくお金や、債権や株や、ギャンブルや、バブルのお話がたくさんでした。競馬のお話が出てこないのが、不思議なほどでした。

 

そして、その時はその時で、やはり退屈してしまいました。

 

 途中から「もういいかげんに、何か作ればいいのに…」と思いながら、聞いていました。

 

 それで、ここにきて気が付いたのは、私が知りたかったのは、この2つの世界のつながりでした。だからばらばらに聞いていると、そのどちら側を聴いていても物足りなくて、飽きてしまうのです。

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追記です。

 ひとつ前の記事に、追記をしました。(^^;)

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