« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月

良いお年を

 今年もこちらのブログを見に来て下さり、どうもありがとうございました。heart

 

 読者さまが見に来てくださること、そしてご感想やご意見などをお知らせいただけますことは、本当に励みになります。heart

 

 来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 皆さま、良いお年をお迎えください。shine

 

shinem(_ _)mshine

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「時間の花」が意味するもの


 久しぶりに「モモ」のDVDを見ました。

 

 エンデの世界の雰囲気がたっぷり表現されてあり、私としてはとても好きな映画です。shine

 

 すっかりエンデの世界にひたり切って、「時間の花」の場面を見ていました。

 

 最近になってから思ったことですが、エンデの世界というのは「考えながら」読み解く世界というよりも、心が「感じるまま」にまかせておく方が、より多くのことが受け取れる世界だったのではないかと思うのです。shine

 

 そうした意味では、私はこのブログを書く上で、はじめの頃はずいぶん無理をしていたと思います。エンデが伝えようとしていたことを、あまりにも早く掴み取ろうとがんばり過ぎていたように思います。

 

 でももう今は、無理をする必要はありません。

 

 私は資本主義社会における「お金のトリック」である「時間どろぼう」を、すでにもう見つけてあるからです。(まだ、うまく表現はできていませんが。)

 

 この日はゆったりと、「モモ」の世界を味わっていました。映像や音楽に、おだやかに心を委ねます。

 

 そしてこの日になってようやく私も気がつきましたが、「時間の花」というのは、「人間が自分の意思で生きている時間」のことだと思いました。shine

 

 そしてこのことから、このブログに関して言えることは、「時間どろぼうによってぬすまれている人間の時間」には、ふたつの意味が受け取れるということです。

 

 ひとつは、私がこのブログの中でつかまえようとしている、人間の物理的な時間のどろぼうです。clock

 

 お金が自己増殖をする資本主義社会では、労働を売る人たちはどれほど時代が進んでも、1日のほとんどの時間を、労働に費やして過ごさなくてはいけません。

 

 生産技術がどれほど進歩しても、労働の時間が1日に少しで済むという時代は来ないのです。資本主義社会である限り、働く人たちのほとんどは、長時間労働か失業、あるいは低賃金の仕事のどこかにおさまってしまいます。

 

 本当は社会の生産技術が上がったら、人間はもっとゆとりを持って、労働の時間を減らせるはずなのです。社会の必要量を生産できれば、あとはもうそれ以上がんばる必要はありません。

 

そうすれば1日の労働のほかにもその人の時間は余って余暇となり、人びとはその時間で遊んだり、何かを学んだり、家族と過ごしたりと、いろいろなことに時間を使えるようになるはずです。shine

 

 社会の生産技術の進歩とともに、本来であれば労働者が受け取れるべきはずの「余暇となる時間」がどうしてか、労働者のもとにやって来ない。

 

 私はそんな時間どろぼうをつかまえるつもりでした。

 

 でもエンデが表していたものは、もっと深遠なものでした。

 

 エンデは、人間が自分の意志で生きられる世界を表していたのです。

 

 資本主義社会では、ほとんどの人間は、本当に自由には生きられないのです。
 

 映画の中で、左官屋のニコラは自分の仕事に誇りを持っていて、本当はまっとうな左官屋の仕事がしたいのですが、お金のためにやむなく、左官屋としては良心が痛むような仕事をしています。

 

 もちろんニコラは、あまり幸せではありません。

 

 現代の時代も、そうではないでしょうか?

 

 たくさんの若い人たちが、社会に貢献したいと思って就職してみても、実際に企業に就職した途端どうしてか、社会のためよりも企業そのもののために、もっと言えば間接的に株主のために、働かざるを得なくなってしまうのです。

 

 自分の意思で選んだ仕事なのにどうしてか、自分の意志のとおりの働き方でなく、自分の意に反するような働き方をしている時、その人の時間はその人のものではなくなっていて、その人の時間は「ぬすまれている」のです。

 

 

 「時間どろぼうから、ぬすまれた時間をとりもどした社会」とは、働く人たちの労働時間が短くなり、それでも世の中がうまくまわっていて、働く人の生活も成り立っている社会です。clockshine

 

そしてまた、働く人たちが自分の仕事に誇りを持っていて、その人の仕事をとおしてまっすぐに、世の中に貢献できる社会です。shine

| | コメント (2) | トラックバック (0)

経済学者の技量と人間性

 

 以前からアダム・スミスとケインズが好きでした。私はその著書をきちんと読むこともできないし、伝え聞きの情報しか得ていないにも関わらず、どうしてなのか好きなのです。book

 その理由が自分でもよくわからないというところがあり、いまひとつ不思議に思っていたのですが、最近ある出来事をとおして理由がはっきりわかりました。


 
この半年ほどのことですが、私はある経済学者のサイトをよく見に行っていました。その先生の経済学的な記事がおもしろかったのです。 

 私にとって経済学というのは、もちろん大変難しいものです。でもその先生の記事を読んでいるとどうしてか、経済学というものがとても面白いものだという気持ちになるのです。upwardright

 

 ところが最近、その先生の人間的な部分に関する情報が見つかって、その結果、ジェット・コースター並みの急降下で、その先生の印象は地面の底(?)に沈みました。downwardright

 

 ずいぶんと…、かなりの人間性だと思います。私としては不快のレベルは、かなり「強」!sweat01

 

 ところがどうしてか、その先生の経済に関する記事はおもしろいのです。sun


 ………?


 
人間性は目をそらしたくなるほどだけど、経済の記事はおもしろい…?!sweat01

 

 経済学的な記事はおもしろいけれど、でも人間性としては地面の底???sweat01


 
人間の生命や人権を大切に思う気持ちが、あまりに欠けているのです。

 

 記事の面白さと人間性のギャップが、大きすぎ?!!!

 

 というわけで、とてもへんてこな気持ちになりました。typhoon


 
ところでこの出来事をとおして、私は自分がどうしてアダム・スミスとケインズを、それほど好きだと思うのか、理由がはっきりと確認できました。

 

 私は、経済学者という人たちの、学者としての技量とその人間性は、まったく別のことだと気がついたのです。

 
(経済学をきちんと修めていない私が、「学者の技量」などという言葉を使ってしまうのは、あまりにもおそろしく、身の程知らずなことではあるのですが、要するに「経済事象を見抜いて、意識の世界に取り出す力shine」とでもいうような力のこととしてご理解願います。)

 

 よく考えてみれば、まったく当然のことでした。

 経済学者という人たちは、経済事象を観察したり、分析したり、数値化、文章化して表現することなどは、誰でも好きなのだと思います。それは経済事象に真向かう時の、経済学者の技量の部分です。pen

 

 でも経済学者という人たちは、そうした経済学者としての技量とはまったく別のところに、その人の人間性という部分を持っていて、その部分がその人たちの主張を作っていくのだと思います。heart

 

 だから心の冷たい経済学者が導く経済社会は、どうしても動物的で荒々しい雰囲気の経済社会となり、心の温かい経済学者が志向する経済社会は、いろいろと問題を抱えていたとしても、温かみのある経済社会に向かおうとするのだと思います。

 

 結局、私がアダム・スミスとケインズが好きなのは、経済学者としての技量の部分ももちろん好きなのですが、同時にいろいろと世の中に伝わっている、それぞれの心の温かさという人間性の部分においても好きだったのです。shine

 

 つまり学者としての技量も、人間性も両方好き!penheart

 

 結局のところ私は(まぁ、いつものことではあるのですが)、心の温かい経済学者が好きだということです。sun

 

 ちなみに私は、リカードの比較優位の原理と交易条件(交換比率)の話については、心底、感嘆しています。経済学というものは、なんておもしろいものなのだろうかと思います。shinecarouselponyshine

 でもだからと言って、リカードという経済学者を好きかというと、それはまたちょっと別の話になるということです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »