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2015年5月

正義は資本に勝てるのか?(枯葉剤裁判の行方を思う)

 ふと気がついたことですが、「資本主義社会では、正義は資本にかなわないのだ」と思いました。

 

 どういうことかと言いますと…。

 

 以前にこのブログでにとりあげましたが、ヴェトナムの枯葉剤を生産した企業

 

 それらの企業は、枯葉剤によって引き起こされた結果を考えれば、どう見ても人道的に問題があったと言わざるをえません。

 

 個人がこのような行動をとれば、どう考えても罪に問われます。

 

それならば企業だって、人道的な罪という点から処罰が合っても当然です。thunder

 
でも、どうしてか、企業は罪には問われません。

 

 枯葉剤を生産した企業は、今でも存続しています。typhoon

 

 そしてまた、別の話にはなりますが、クラスター爆弾を作っている企業というのも、存在しています。

 

 おまけに「ただ存在している」というだけでなく、こちらは投資の対象にもなっていて、株主に利益ももたらしているのです。dollar

 

*リンク先、右クリックでご参照下さい。 

http://jp.ibtimes.com/articles/408950

 資本主義社会では、経営を理由に人道的な問題を引き起こす企業でも、なかなか社会から処罰を受けないのです。

 
それどころか、人道的な罪を犯している企業でさえ、投資の対象として、投資家から歓迎されてしまいます。bell

 
身近なところでは、大地を広範囲にわたって放射能で汚染した企業などは、社会から処罰を受けても当然です。

 

 ところが、処罰はありません。

 

 処罰どころか、わざわざ税金で、国民に助けられている始末です。

 
税金を使うと言えば、大きく破たんする金融機関などもそうでしょう。

 

 世の中に迷惑をかけた企業であれば、処罰を受けるべき。

 

 企業が世の中に迷惑をかける時は、当然、個人の過失の場合よりも、規模が大きくなります。

 

 それなのに処罰という点では、企業の過失は、個人の過失と比べてあまりにも軽くすまされ、さらには国によって救済さえされてしまうのです。

 

 いったいどうして、そうなってしまうのだろうか?と思いますが…。

 

 でも、よく考えてみると、その理由というのは結局、企業の処罰を決めるべき人たちが、同時に、どこかの企業の株主でもあり得るから、という可能性は考えられないでしょうか?shadow

 
もしも、企業の処罰を決めるべき人たちが、結局「個人的には、株主でもあり得る」としたら、自分が株を持っている企業の処罰など、まずあり得ません。

 

 株主であれば、処罰を考えるどころか、なんとかしてその企業の経営を続けさせ、自分のところに来る配当が減らないように、あるいは、株価は高いままでと行動するのが当然でしょう。

 

 政治家であろうが、なかろうが、投資家という立場になれば、武器を生産している企業も、世の中の人々を幸せにする製品を生産する企業も、それほど区別はありません。

 

 投資の世界では、配当金や株を売った時に出る利益は、どの企業からのものであっても、結局ただの利益であって、そこには区別がないからです。dollar

 

 株式会社という仕組みがあるために、資本主義社会では、社会や人間に悪影響を与える企業までもが、社会からの処罰を免れやすくなるということは、あり得ないこととは言えないと思います。

 
でも、やはり、個人の行動では悪いとされる行動が、企業においては容認されるというのは、受け入れ難い話です。

 

 資本主義社会では、正義は資本の意向に勝てないのでしょうか?

 

 ちなみに枯葉剤に関しては、フランスで被害者の訴えによる裁判が始まるそうです。

 

 「資本 対 人権」の裁判として、行方がとても気になります。libra

 

 先の理由から、資本主義社会では、正義は資本の意向に「勝ちにくい」と私は考えます。

 

 でも、そこを踏まえても、原告側の弁護士さんには、ぜひともがんばってほしい!と思います。

 
現代の資本主義社会では、資本の増殖を完全に否定できる理論は、まだ育っていません。

 

 裁判の行方は世論にかかっているそうです。

 

 たしかに世論には、企業に制裁を加える力があるかも知れません。flair

 
行方を見守りたいと思います。

 

*リンク先は、枯葉剤裁判の記事です。

http://synodos.jp/international/13841

 

 

 

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あの戦争は、自ら選んでいた…

 5月10日(日)の午後のことでした。

 

 たまたまテレビをつけたら、NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」という番組を放送していました。

 

 内容は「メディアと民衆」というものでした。

 

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2015/150510.html

 

 興味があったので、見ていました。tv

 

 そして、予想以上に興味深い内容に、驚きました。

 

 その時は突然で、録画が間に合いませんでした。

 

 それで後になって図書館から、「NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(下)」という本を借りてきて、今、この記事を書いています。

 

 番組の中で私が興味をひかれたのは、「日本人は、自分たちであの戦争を選んでいた」と感じさせられた部分です。

 

 経緯をおおまかに書きますと。

 

もともと大正デモクラシーを経験してあった新聞界には、ある時期まで民主主義の思想が根付いていたそうです。新聞各社は軍の弾圧を恐れることなく、軍の拡大を批判していたということなのですが。

 

ところが「戦争になると発行部数が伸びる」という実情があったため、1931年の満州事変を契機に新聞社は報道競争を始めます。日本軍の快進撃という報道は、世界恐慌で疲弊した経済に苦しめられていた国民を熱狂させたということです。

 

この時、満州事勃発の3カ月ほど前に。

 

実は、国民にとってはまだわずかに、後の戦争を避けられたかも知れないターニング・ポイントとなり得る状況があったのでした。

 

満州事変の3か月ほど前に、中村震太郎事件という出来事があったのです。

 

大興安嶺(だいこうあんれい)という場所で、敵情を偵察していた陸軍将校中村震太郎大尉ほか3名が中国兵に拘束され、銃殺後に遺体を焼き捨てられるという事件でした。

 

この時、各新聞社はこぞって中国兵の残虐性を強調した記事を書き、その後は満州事変拡大を支持する方向に進みます。

 

その時、大手新聞社の中で、朝日新聞だけが慎重論を唱えました。

 

ところが朝日新聞のその論調に対して、今度は全国各地で朝日新聞に対する不買運動が起こります。

 
新聞社とは言っても、結局は資本主義社会の企業に過ぎません。

 

不買運動は、企業に打撃を与えます。

 

最終的に、朝日新聞はその論調を変えざるを得なかった…。

 

その結果、もはや世論を抑制しようとするメディアはなくなって、ほとんどのメディアが軍部に寄り添い、こぞって満州事変を煽っていく方向に変わったということです。

 

私はこの番組を見ていて、当時の日本人の気持ちというものが、不気味に思えてなりませんでした。

 

関東軍の勝利ということは、他国の人たちを「またやっつけた」ということです。

 

どうしてそのような暴力的な出来事に、当時の人々は「バンザイ!」と叫べたのか?

 

女性たちも、歓声を上げているのはなぜなのか?

 

女性たちは生命への慈しみを忘れたのか?

 

民衆は、新聞の不買運動という形で、自分たちが日本の未来を選択したことに気づきませんでした。

 

その結果は後になって、自分たちに大変な牙をむいて、犠牲を強いてきたのです。

 

当時の民衆は、どのような気持ちで満州事変を支持したのでしょう?

 

もしかしたら、世界大恐慌という経済の苦境が、人びとの心を苛立ちでいっぱいにしていたのかも知れません。

 
何にしてももしもあの時民衆が、朝日新聞ではなく、満州事変拡大を支持する新聞に対して不買運動を起こしていたとしたら?

 

それでも新聞社は、その論調を貫けたでしょうか?

 

この番組とそして本は、資本主義社会における報道機関の行動を考える上で、大変興味深い内容を記していると思います。book

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本の表紙は重要だという話

 最近ある本を買うにあたり、「本の表紙というのは、とても重要だ!」と感じる出来事がありました。

 

 本の中身ももちろん重要ですが、その重要な中身も表紙によって、人とのご縁ができたり、できなかったりすることもあるというお話です。

 

 直接、経済の話とは言えませんが、これもまたある意味、「本との出会い」に関するお話と言えそうです。book

 

 ある時、書店で平積みになっている本の中で、はっと目についた本がありました。sign01

 

 それは「愛着障害」というタイトルで、このような表紙(カバー)の本でした。

 

 「愛着障害」という言葉は、心理学の興味のない人には、ピンとこないかも知れません。

 

 愛着というのは簡単に言うと、赤ちゃんと特定の養育者(たいがいはお母さん)との間に生まれる、心理的な絆のことです。

 

 すごく大雑把に言ってしまいますと、幼い時に愛着が心の中に適切に形成された赤ちゃんは、大人になってからも対人関係が上手にこなせるようになり、その反対に愛着が適切に形成されなかった赤ちゃんは、成長してから情緒的な不安定さや、対人関係がうまくこなせないという問題を抱えるようになると、考えられています。

 

 そして私は、まさしくこの愛着障害に該当している人間なのですが、この愛着障害というのは、実はとても苦しい症状を表します。

 

 そういうわけで、この本を手に取った時、私はすぐにそのタイトルと表紙から、内容の意味を察して「買おう!」と決めました。sign01

 

 ただし、買うとは決めてもいつものとおり、すぐには買いません!(←笑)

 

 大学の生協に電話で在庫を確かめ、それから金券ショップで図書カードを用意して、閉店間際の生協に駆け込みます。(大学の生協で買うと1割引きです。)

 

 ところが生協で本を受け取った時、驚きのあまり目が点になりました。(!)

 

 というのは、私はその本のことを、なんと3年ほども前から知っていたのです。thunder

 
そしてその時に私はその本を手に取り、おそらく中身も見てあって、でもその時には買おうと思わなかったのです。sweat01

 

 どうして私は、その本を買わなかったのか?

 

 理由は、表紙にありました。

 

 私が見たのは、こちらの表紙(リンク先)の本だったのです。

http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334036430

 

 そして、どうして私は表紙が違うというだけで、自分にとって重要な意味を持つこの本を買わなかったのか?ということですが。

 

 それは、この愛着障害という状態による、大変苦しい症状にありました。

 

 3年ほど前に私がこの本に出会った時、私は心の不調の真っただ中でした。

 

 その頃の私は心の不調が深刻過ぎていて、それこそ「溺れる者は、藁をもつかむ」という心境だったのです。

 

 その頃に、この本に出会った時。

 

 手に取って中を見てみると、「安定型、不安型、回避型、恐れ・回避型」という、いかにも冷静な分類と。

 

 それから川端康成、ルソー、漱石、太宰治、エンデ、ビル・クリントン、ヘミングウェイ、…。shadow

 

とてもではないけれど、自分とは関係のなさそうな、華やかな有名人の話ばかり…。sweat01

 そして、いかにも穏やかで、落ち着き払ったこの表紙…。

 

というわけで、「この、激しい心の痛みが止まる特効薬があるなら、今すぐにでも!」というほど苦しんでいた私には、こちらの表紙はあまりにも冷静で、知的に落ち着き過ぎていたのでした。

 

 そういうわけでようやく、多少は心の痛みの制御もできるようになった今になってから、私は表紙が変わったこの本に出会ったのです。book

 

まぁ、あの頃に出会っていても、結局どうすることもできなかったかも知れませんが…。

 

それでも、もっと早くこの本に出会っていれば、私も自分の症状についての理解ができ、少しは不安が軽減されていたかも知れません。

 

そういうわけで、本の表紙というのは意外と、でも、とても重要なのだと思いました。

 
この愛着障害の話は、実は経済の話とも関係しますので、いずれまた別の機会にも書きたいと思います。

 

 それにしても、今回はたまたま心理学の本でしたが、もしかしたら経済の本でも、そういうことはあるのかもしれません。

 

 だとしたら、とてももったいないことだと思います。book

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枯葉剤と補聴器

 以前にあるテレビ番組で、日本のある補聴器メーカーの活躍を知りました。tv

 

そのメーカーは、ベトナムの先天性難聴の子どもたちのために、補聴器を売り込んでいこうとしていました。

 

番組の中で放送されていた、音が聞こえるようになった男の子の映像は、見ていても本当にうれしいものでした。heart01

 

人を幸せにする商品を生産する、日本の誇りとなるような企業だと思います。shine

 

この日の番組では、ほかにも海外で、その土地の人々の健康のために活躍している企業が紹介され、大変気持ち良く見ていられる放送でした。

 

ただ、ほんの少しだけ。

 

この日の放送で、まったく対照的な事実も知りました。

 

(番組の中で紹介された企業の活動が素晴らしいことには、まったく変わりはありません。まったく、別の企業に関する話です。)

 

ベトナムの先天性難聴の子どもたちというのは、悪名高き枯葉剤の影響であると考えられているのです。

 

ここには本当にやり切れない、資本主義社会の構造上の欠陥を感じます。

 

資本主義社会では、番組の中で取り上げられたような、人を幸せに導く企業も存在していれば、それと同時に、人を傷つけるような製品を生産する企業も存在し得るのです。

 
そこには、会計、そして投資という行為の存在が関係していると思います。

 

企業というものを、財務諸表を使って判断しようとする時に、その企業の実体である、「その企業は何を生産しているのか」という重要な問題がきれいに切り離されてしまい、その結果、企業の状態は、善も悪もないただの数字の羅列に変わってしまいます。

 

その先は、人間を幸せにする商品を生産している企業も、人間を傷つける製品を作っている企業もまったく同等に扱われ、企業の価値というものが、投資家にとって都合の良い企業であるかどうかという点からだけで、判断されてしまうのです。

 

 枯葉剤を生産した企業は、現在でも存続し、利益を上げています。

 

 最近思うのですが、こうした資本主義社会の構造上の欠陥というものは、もしかしたら会計という行為によって、企業の姿が、ただの金額で現された財務諸表に変換されてしまうことによって、起こっているのではないかと感じるようになりました。

 

(注意:ここで言う「会計」というのは、財務諸表を作成する行為という意味です。)

 

 それは、会計という行為がいけないと言うのではありません。

 

 会計によって写し出された財務諸表の世界というものが、企業の実体を写し出そうと試みた結果の、数字だけの世界であり、そして、その数字というものは、人間が生産物の交換用に使っているお金の金額であり、さらにまた、そこに投資という活動(お金を出資して、より多くのお金を得る行為)が肯定されているということが、おもな問題なのではないかと思います。

 

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