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柔らかなる知(思考のあり方について思う)

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 この絵は、小杉放菴の「湧泉」という作品です。

 

 3月に出光美術館で開催されていた、「没後50年 小杉放菴 <東洋>への愛」展の図録には、次のような説明がありました。(*写真は、図録より撮影したものです。)

 

(引用始め)

 

 東京大学大講堂(通称・安田講堂)の舞台正面に放菴が描いた壁画の一部の習作。舞台上部のアーチ型に向かって左側は「湧泉」、右側は「採果」と呼ばれている。放菴はパリのソルボンヌ大学の大講堂にあるシャヴァンヌの大壁画を念頭に、フレスコ画風の薄いタッチで、知恵が泉のように湧き出し、大きな成果となって実を結ぶまでの、大学にふさわしいテーマを考えた。

 

(引用終わり)

 

 この絵を見ていたら、「柔らかなる知」という言葉が浮かんできました。

 

 自分が学問の素質に欠けるせいか、私は学者という人たちの仕事に興味を持ちます。

 

 学者という人たちの仕事に時には感動し、時には残念なことですが、失望もします。

 

 失望をするのは、「驕り」を感じる時です。

 

 学者という人たちは、思考します。

 

 その思考は、その人が置かれている世界の中で得た思考ですが、学者という人たちの中には時として、自分がまるでこの世界のすべての知を得ているかのような強さで、その思考を主張する人たちもまた、見かけます。

 

 思考は時としてひとつの剣となり、世界の見え方を歪めます。

 

 思考をふりかざし、その硬さで世界を切り取れば、世界の本当の姿が見えなくなってしまうかもしれません。

 

 経済学の世界でも、心理学の世界でも、おそらくほかの分野の世界でも…。

 

 そうやって一時的に、世界をその人の思考にあてはめてみたとしても、その驕りは数百年の後には朽ち果てて、錆びた鉄塔のように崩れていくでしょう。

 

 「真理」というのは、大きな水の流れのように柔らかで、同時に「たしかなもの」ではないかと思います。shine

 

 学者の思考が真理を歪めても、未来は真実だけしか残しません。

 

 学者という人たちは、小さな一生の時間で自らの仕事を記録に残し、世界を去ります。

 

その記録は誰かによって後を継がれ、世界が少しずつ、人間の意識の世界に写し出されます。

 

 そうした、糸をつなぐような受け渡しの連続が、いずれは悠久の世界を写すでしょう。shine

 

 そのような、力みのない思考のあり方を、私は「柔らかなる知」と呼びたいと思いました。

 

 この作品は洋画でありながら、東洋的な情緒に満ちています。

 

 穏やかな微笑みは、知に向かう人間の営みを楽しむような、幸福な気持ちを思わせます。

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*図録はリンク先から購入可能です。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/shop/illust/index.html

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