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2015年7月

「エンデの遺言」が、企業統治の難問を解放する。

 たまたま、企業統治(コーポレート・ガバナンス)に関する良く似た言葉が、2冊の本で重なりました。

 

 ひとつは、以前から読んでいる「経営はだれのものか 協働する株主による企業統治再生」(加護野忠男著)という本です。

 

 そしてもうひとつは、「コーポレートガバナンス 経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行著)という本の中の、章のタイトルで「企業はだれのものか」というものです。



 こちらの本では、この章の中でさらに「会社はだれのものである『べき』か」という節も出てきます。

 

 どちらの本も、経営、企業、会社について、それは「だれのものである」という、明確な結論はありません。

 

もしかしたらこの問題は、企業統治においての、いわゆる「難問」なのかも知れないと思いました。

 

 答えが出しにくい問題だということは、間違いなさそうです。

 

 それでこの問題ですが、これはたしかに、現在の経済学を基盤にして考えると、とても答えの出しにくい問題ではないかと思いました。

 

 でも、また同時に、この問題は、ほんの少しばかり思考を拡大して、現在の経済学が前提としている「ある思考」の存在に気づけば、意外と突破口が見いだせる問題ではないか?とも、思いました。shine

 

 「現代の経済学が前提としている『ある思考』」というのは、簡単に言うと、金利や配当などの「お金の自己増殖」という現象です。

 

 つまり、金融による「資産運用」という行動です。

 

 この「お金というものは、運用することによって、自己増殖することが当然である」と思考する世界では、この企業統治の問題が難問になってしまいます。

 

なぜかと言いますと…。

 

 少し変わった本ですが、「株式会社とは何か」(友岡賛著)という、会計の歴史の本があります。

 

 この本は、会計という行為の意味や、その方法が洗練されていく過程を記した本ですが、その内容が大変独特で、とてもおもしろい本だと思います。

 

 この本では、「会計という行為はもともと、資産を運用する者が、企業経営という行為を利用して資産を運用する際に、資産の運用を託された経営者が、その資産を適切に運用している(運用者を欺いていない)ということを、運用者に説明するための行為である」という内容が書かれてあるのです。

 

 そこでは、株式会社という形での企業というのは、はじめから資産の運用者が資産を運用する方法のひとつです。

 

 つまり、株式会社というのは、はじめから資産運用者の、運用のための道具です。

 

 世の中や経営者が、企業をだれのものであり、だれのために経営がなされるべきだと考えようがそれは自由ですが、そもそも「株式会社」という仕組みが、はじめから「株主の資産運用」を目的とした仕組みでした。

 

 だから、株式会社という形態をとっている以上、企業は「はじめから株主のもの」ということです。

 

ところでこの考え方ですが、これはまた、ある思考を取り入れると、一気にひっくり返すことができます。

 

 ある思考というのは、「お金を使ってお金が得られる『資産運用』という現象は、そもそも社会にとって正当なものなのか?」という、社会全体への正当性の検証です。

 

 資本主義社会や経済学の世界が、そもそもまったく疑いを持つことなく、正当なものとして受け入れている、「お金でお金を稼ぐことができる」という習慣について、「それは、果たして正当なことなのか?」と、経済学そのものの「前提」を見直してみるのです。

 

 「エンデの遺言」という本があります。



 「エンデの遺言」というのは、ドイツの児童文学作家、ミヒャエル・エンデが生前、ひそかに考え続けていた、お金に関する思索や洞察の断片的な情報です。

 

 「エンデの遺言」では、ミヒャエル・エンデは、現行の資本主義社会で自明とされているお金のあり方に疑問を投げかけ、その在り方について、「お金の役目」という視点から見た場合、適切な在り方なのか?という、思索を試みています。

 

 エンデは、金利やマネーゲームという、実体のある財やサービスとすっかり切り離されて取引される、金融の世界のお金にも目を向けました。

 

そうした取引に使われるお金は、実体のある財やサービスの交換の道具として使われるお金とは違う種類の、「別のお金」として扱われるべきだとしたのです。

 

パン屋のお金と、カジノのお金は違う」とエンデは言っています。shine

 

パン屋のお金と、カジノのお金はどう違うのか?

 

経済について考えている人であれば、気がつくはずです。

 

パン屋のお金とは、実体のある財やサービスの交換に使われるお金です。

 
つまり、労働の対価として支払われるお金のことです。bread

 
それに対してカジノのお金とは、まったく、実体のある財やサービスの生産と関係のない、単なる金融市場の参加者間でのお金の移動です。

 

「不労所得」という言葉は適切ではないと思いますが、金利などの、資産運用によって得られるお金というのは、労働を提供しなくても、ただ、「手元にあったお金を運用することによって得られるお金」です。

 

 たしかにエンデが思索したとおり、資本主義社会ではお金というものが、労働の対価として得られる場合と、まったく労働を提供しなくても得られる場合の、両方の取引に使われているのです。

 

エンデは最終的な結論は、示しませんでした。

 

 エンデが遺した様々な言葉から、読み手は自分で答えを探さなくてはいけません。

 

でも、その洞察を追っていくと、私たちは自然に、「もしも、実体のある財やサービスの交換の道具として使われているお金というものが、その一方で、財やサービスの生産から切り離された、金融取引という習慣によっても増やせる状態にある場合、社会における財やサービスの分配は、果たして全員に公平なものとなりえるか?」という疑問に当たります。sign02

 

これは私の考えですが、私は「お金の自己増殖が認められている社会では、社会の中の、実体のある財やサービスの公平な分配が歪んでしまう」と、考えています。libra

 

「お金」そのものが自ら増殖する、資産運用という習慣そのものが、社会における公平という観点から見直してみた場合、本来「あってはいけない習慣」ではないかと思うのです。

 

地球の過去を思えば、金利や株式会社という仕組みも、やむを得なかったという状況は感じますが、電子マネーさえ実現した現代以降の社会では、お金の自己増殖という現象は、いずれは廃止されていくべきものだと考えます。

 

この考え方はひとつの例ですが、たとえばこのような思考を進めて、資産運用という現象そのものを社会から否定することができたとしたら、はじめの企業統治の難問は、かなり整頓されます。shine

 

資産運用という状態そのものが存在しない社会では、企業は株主の資産運用の道具になり得ません。

 

企業は株主のものではなく、だから企業は、株主の資産運用の道具としての経営はしなくてもいいのです。

 

このように、経済学が自明として受け入れている「資産運用」という現象の否定がされた時、企業統治の問題は、株主の存在からは自由になり、企業は株主の道具であるという考え方から解放されます。flair

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企業は、公共事業から利益を出してはいけないと思います。

 昨日、テレビを見ていたら、戦後の政治について放送していました。tv

 

 なんとなく、かなり前に経済学入門の授業で聞いた、ある先生のお話を思い出しました。

 

 うろ覚えですが、だいたい次のようなことだったと記憶しています。

 

 世界大恐慌の時にケインズが、「政府が赤字国債を発行して公共事業をするべき」と言ったのは、「不況の時には」という、状況の限定がついていたのだそうです。

 

 ところが日本の自民党は、不況でも好況でも関係なく公共事業ばかりしているので、先生のお話では、「自民党は、ケインズの言葉を自分たちに都合良く利用している」というのです。sweat01

 

 「あれでは、財政赤字が膨らむのは当然だ。ケインズは好況の時にまで、公共事業をしようとは言っていない!」というわけです。sign01

 

 その後、ケインズの限定について私はまだ、自分で確かめたわけではありません。

 

でもたしかに、昨晩の番組にもありましたが、日本の自民党は道路工事などの、公共事業をたくさんしてきたようです。

 

 どうもこの公共事業というのは、自民党と企業にとっては、大変「楽しいこと(美味しいこと?)」であるようなのです。

 

 ところでこの公共事業ですが、私は株式会社という仕組みを理解した時期から、ある考えを持つようになりました。

 

 それは、「公共事業を請け負った企業は、その事業からは利益を出してはいけない」というものです。thunder

(また「暴論」かしら?)(^^;)sweat01

 

公共事業を請け負う企業が、その事業から大きな利益を出して、株主に配当を出すなどということは、とんでもないことだと思うのです。

 

 公共事業は、私的な企業の利益のために行われるものではなく、国や自治体のために行われるべきものです。

 

 そこに利益を期待されて、公共事業を請け負われてしまうようでは、納税者はたまったものではありません。

 

 それでは利益の分は、納税を経由した、国や自治体から企業へのお金の移転ではないかと思います。

 

 公共事業については、それを請け負った企業は、「その事業からは、大きな利益を出してはいけない」という、決まりを作るべき。

 

 国や自治体が企業に払うのは、その企業がその事業において支出した実費(人件費は、きちんと支払う。)と、ある程度の利益として。

 その代わりに、税金を負けてあげるとか…。

 

 あるいは、もしもそうすると、公共事業を請け負う企業がなくなると言うのであれば、利益を出す場合でも、実際に企業が得た利益の金額は納税者に公開するべきでは?

 

 公共事業を、企業にとっての「美味しい話」にしてしまうと、企業と政治家の癒着が起こりやすくなり、税金が無駄遣いされやすくなると思います。sweat01

 

 企業は大きな利益を得ようとして、とにかく公共事業を望むかも知れません。dollar

 

 政治家は企業を喜ばせるために、本来は必要のない公共事業をしようとするかも知れません。chair

 

 そうすると、国や自治体が不要な公共事業を計画してしまう可能性が出てきます。

 

 その結果、税金が、本来は必要ない公共事業のために、無駄使いされてしまうかも知れません。sweat01

 

 公共事業というものが、企業にとって美味しい話でなくなれば、利益が目的の企業は公共事業から離れていくはずです。

 

 国や自治体はあとに残ってくれる企業の中から、良心的な企業を選んで、公共事業をまかせればいいと思います。shine

 

 もちろん納税者としては、できるだけ良心的な企業におまかせしたいものです。note

(*^^*)

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私たちは「株式会社」も知らずに選挙権を持っている

 選挙権というものを考える時に、自分のこととして「それは、あるべきだ」と思います。

 

 無いということは、政治に対して意思表示もさえてもらえないということなので、それは絶対に嫌!

 

 でも、だからと言って、今度は「自分にとって良い政治家を選ぶための、基礎となる知識もないのに、選挙権だけを与えられる」というのも、どうなのだろうか?と思うのです。

 

 もう10年以上も前、私はあまり選挙に行きませんでした。

 

 「行ってもどうせ、変わらない」。

 

 これは、私の選択が、いつも世の中の少数派であるからです。(笑)

 

 でも、この「どうせ、変わらない」という言葉の奥には、実はもっと深く、「世の中の仕組みが、よくわからない」という思いがありました。

 

 だから私は、選挙運動の中で政治家が語る言葉の、おそらく半分もわかっていなかったのです。

 

 そして、もっとも大切だったこと。

 

 とくに、経済については、まったくわからない。

 

 政治家が「経済をああしよう、こうしよう」と言っていても、それが実現可能な話なのか、そもそも、それが誰の利益になるのかも、よくわかっていなかったのです。

 

 私に理解できたのは、ただの感情的な言葉だけでした。

 

 そして、私は「安っぽい感情」が嫌いなので、その結果、私の選択はいつも、自然と少数派の政党や政治家になるのでした。

 

 「エンデの遺言」に出会い、その途中で「株式会社」というものを理解した時に、私は変わったと思います

 

 「その政策は、誰の利益になるのか?」が、考えられるようになったのです。

 

 それからは、きちんと選挙に行っています。

 

 限られている選択肢の中から、少しでも、自分が望む世の中に近づけてくれそうな候補者を選んで投票しています。

 

 国民審査も、なるべく自分の感性と合った裁判官を選ぶように、努力しています。

選挙権をきちんと使うために、「株式会社を理解する」というのは、それぐらい大切なことなのだと思います。

 

 でもこの「株式会社」についての知識は、義務教育では得られません。

 

 賃金、利益、財務諸表、配当、運用、証券取引所、株価など。

 

 それらについて私たちは、ほとんど知識を得ることなく、20歳になれば選挙権が与えられます。

 

 私たちは、「株価がいくら上がろうと、いつでも、雇われている自分の収入が増えるというわけではない」ということも知らずに、投票する権利だけが与えられるのです。

 

 私たちは株とか、株式会社という仕組みそのものも、知らないのです。

 

 これではどうやって、その政治家の政策が、自分にとって良いものであるのかを、判断したらいいのでしょう?

 

 自分に理解ができるのは、ただの感情的な言葉だけだとしたら、どうやって?

 

 「あの政治家は、見た目がいい」。

 

 「あの政治家は、だめだ」。

 

 「あの政治家の言葉は、わかりやすい」。

 

 そうしたことだけを判断材料に、投票して。

 

 気がつくと、日本の形が変わっている。

 

 日本は、平和な国ではなくなってしまうかも知れません。

 

 「株式会社」についての知識が広まらない限り、日本は何度でも同じ失敗をするでしょう。

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ギリシャの不思議と、日本の不思議

 ギリシャのデフォルト騒動を見ていて不思議に思うのは…。

 

どうも、ギリシャの国民という人たちは、決して「怠け者sleepy」であるとは見えないことです。

 

 テレビに出てくる町の人たちを見ていても、どうも皆さん、普通の人らしく、それぞれが働いて、生計を立てているようです。

 

 普通に働いて、真面目に生活をしている人たちの国が、どうしてあのようなことになったのか?

 

 たとえば国民のほとんどが、朝からお酒ばかり飲んで、ギャンブルにふけっていた、というのであれば、話はわかるのです。beer

 

 でも、どう見ても、そうではない。sweat01

 

 普通の、常識のありそうな人たちです。shine

 

 それならばギリシャの人たちは、いったい何を間違えて、あのような窮地に陥ってしまったのか?

 

 こちらは、「どうして、あのような状況になったのか?」という、過去からの経緯が不思議です。clock

 

 そしてまた、その一方で、自分が住んでいる国、日本も不思議です。

 

 新国立競技場の建設費用が、いつの間にか2500億円から、2520億円に増えていました…。sweat01

 

 2500億円でもびっくりしていたのに、さらにまた20億円です…。sweat02

 

 だから、東京都にも負担が来る?

 

 建設費を見積もっていた人たちの、お金の見積もり能力の低さもたいしたものですが、それ以上に驚かされるのは、それでも建設を進めようとする姿勢です。sign03

 

 今どき10代の男の子だって、このようなおかしな行動はしないのでは?

 

 まるで「返せない借金を抱えたままで、人に見せびらかす高級車を買う」、という感覚のようにも思えます。dollar

 

 そういう場合はおそらくもう、借金など返すつもりはないのでしょう。

 

 それで、こちらはこちらで、「未来に、いったいどうするつもりなのだろう?」という、未来への姿勢が、不思議です。clock

 

 でも、もしかしたら、このふたつの国の「不思議」は、過去から未来のどこかで、つながっているのかも知れません。sign02

 

 つまり、「真面目に働いているのに、窮地に陥る国民」というのは、将来の日本の私たち…?thunder

 

 

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時間とは、生産における「材料」の一種ではないか?

 派遣で働いていると、いろいろなことを考えます。

 

 また家に帰れば、普通の生活者としても、いろいろ考えます。

 

 たとえば職場で、仕事の材料だけはそろっている。

 

領収書などの証憑類とコピー用紙。(よくある「領収書貼り」の場合。)

 

 でも、それを片づけるための時間が無い!clock

 

 そうするともう、その仕事は完成しないのです。sweat02

 

 家にいても、そう。

 

 夕食の材料は、そろっている。

 

 タマネギ、ニンジン、ジャガイモ、お肉、カレーのルー!(今日はカレーという場合♪)

shine\(^0^)/shine

 

 でも、今日はいろいろあり過ぎて、もうお料理をしている時間が無い!clock

 

 そうすると、お夕飯ができません…。sweat02

 

 「時間が無い」というだけで、物理的な材料は揃っていても、それを完成させることができないのです。

 

 そうすると、何かを完成させようとする時は、物理的な材料をそろえた後に、必ず「完成させるための時間」が必要になるということです。sign01

 
そのように考えると、「時間」というのはなんとなく、生産における材料の一種ではないかという気がしてきます。shine

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デフォルトで、国民はどうなるのでしょう?

 6月30日まで、ニュースではギリシャのデフォルトについて、いろいろ放送していました。tv

 

 それで、私としては「デフォルト」という状態が、まず、よくわからず、もしギリシャがデフォルトになったら、いったいギリシャの国民には何が起こるのだろうか?と、とても気にして見ていました。

 

 その時点では、国民はATMの前に並ぶはめになり、それだけでもかなり迷惑を蒙っている様子でした。sweat01

 

 「あれで、本当にデフォルトになってしまったら、ギリシャの人たちはいったい、どうなるのだろう?」。

 
なんとなく、国民には、あまり責任はないような気がします。

 

 私としては、ますます気になって、見ていました。

 

 ところが7月1日になったら、ギリシャのデフォルトに関する放送があまり、なくなってしまいました。sign02

 

 他国の出来事をとおして、デフォルトの時に、国民にはどういうことが起こるのかを、よく見ておこうと思っていた、としては、キツネにつままれたような気分です。

 国のデフォルトって、実際にそうなっても、べつに国民には影響はないのでしょうか

 

 もし、国民に特別な影響がないのであれば、日本だって、べつにデフォルトになっても、いいのでは?

 

 だって日本などは今もまだ、これから1300億円ではなくて、2500億円もかけて、新国立競技場を作ろうとしていたりするのです。

 

 ただでさえ、「もう返せない借金」と言われている状態なのに、そんなことをしているようでは、ますます返せるはずなどありません。

 

 国民としては、もうお手上げというか、どうにもできません。sweat01

 

 それなれば、いっそ、もうデフォルトで…。

 

 いや、もっと借金を大きく膨らましておいてからデフォルトに、という作戦?!

sun\(^0^)/sun

 

 とにかく、国民に影響がないのであれば、よくわからないけれど、デフォルトでいいじゃない?と、思います。

 

 でも、もしも、ある国がデフォルトになったら、その国の国民は本当に大変な思いをするというのでれば、その場合。sweat02

 

 たとえばこれから、ギリシャの国民が本当に大変な思いをするとしたら?sweat01

 

それならば日本は速攻!で、自ら緊縮財政にとりかかった方がいいのではないでしょうか?thunder

 

 建設費を2500億円もかけて、ハデな新国立競技場など、作っている場合ではありません。

 

 そういう派手なお金の使い方を容認しておいて、そのツケが未来に、国民にまわってくるのだとしたら、「あ~あ、また?」なんて、あきれて見ているわけにはいきません。

 

 でも実際には、「デフォルト」って、いったい何が起こるのでしょう?sun

 

 ………。

 

*^^*)???shine

 

 そういうわけで私は、デフォルトになった後のギリシャの国民の状態というものが、とても気になっています。

 

 でもどうやら、7月5日の国民投票が終わるまで、今後の展開については「お預け」みたいです。tv

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