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「エンデの遺言」が、企業統治の難問を解放する。

 たまたま、企業統治(コーポレート・ガバナンス)に関する良く似た言葉が、2冊の本で重なりました。

 

 ひとつは、以前から読んでいる「経営はだれのものか 協働する株主による企業統治再生」(加護野忠男著)という本です。

 

 そしてもうひとつは、「コーポレートガバナンス 経営者の交代と報酬はどうあるべきか」(久保克行著)という本の中の、章のタイトルで「企業はだれのものか」というものです。



 こちらの本では、この章の中でさらに「会社はだれのものである『べき』か」という節も出てきます。

 

 どちらの本も、経営、企業、会社について、それは「だれのものである」という、明確な結論はありません。

 

もしかしたらこの問題は、企業統治においての、いわゆる「難問」なのかも知れないと思いました。

 

 答えが出しにくい問題だということは、間違いなさそうです。

 

 それでこの問題ですが、これはたしかに、現在の経済学を基盤にして考えると、とても答えの出しにくい問題ではないかと思いました。

 

 でも、また同時に、この問題は、ほんの少しばかり思考を拡大して、現在の経済学が前提としている「ある思考」の存在に気づけば、意外と突破口が見いだせる問題ではないか?とも、思いました。shine

 

 「現代の経済学が前提としている『ある思考』」というのは、簡単に言うと、金利や配当などの「お金の自己増殖」という現象です。

 

 つまり、金融による「資産運用」という行動です。

 

 この「お金というものは、運用することによって、自己増殖することが当然である」と思考する世界では、この企業統治の問題が難問になってしまいます。

 

なぜかと言いますと…。

 

 少し変わった本ですが、「株式会社とは何か」(友岡賛著)という、会計の歴史の本があります。

 

 この本は、会計という行為の意味や、その方法が洗練されていく過程を記した本ですが、その内容が大変独特で、とてもおもしろい本だと思います。

 

 この本では、「会計という行為はもともと、資産を運用する者が、企業経営という行為を利用して資産を運用する際に、資産の運用を託された経営者が、その資産を適切に運用している(運用者を欺いていない)ということを、運用者に説明するための行為である」という内容が書かれてあるのです。

 

 そこでは、株式会社という形での企業というのは、はじめから資産の運用者が資産を運用する方法のひとつです。

 

 つまり、株式会社というのは、はじめから資産運用者の、運用のための道具です。

 

 世の中や経営者が、企業をだれのものであり、だれのために経営がなされるべきだと考えようがそれは自由ですが、そもそも「株式会社」という仕組みが、はじめから「株主の資産運用」を目的とした仕組みでした。

 

 だから、株式会社という形態をとっている以上、企業は「はじめから株主のもの」ということです。

 

ところでこの考え方ですが、これはまた、ある思考を取り入れると、一気にひっくり返すことができます。

 

 ある思考というのは、「お金を使ってお金が得られる『資産運用』という現象は、そもそも社会にとって正当なものなのか?」という、社会全体への正当性の検証です。

 

 資本主義社会や経済学の世界が、そもそもまったく疑いを持つことなく、正当なものとして受け入れている、「お金でお金を稼ぐことができる」という習慣について、「それは、果たして正当なことなのか?」と、経済学そのものの「前提」を見直してみるのです。

 

 「エンデの遺言」という本があります。



 「エンデの遺言」というのは、ドイツの児童文学作家、ミヒャエル・エンデが生前、ひそかに考え続けていた、お金に関する思索や洞察の断片的な情報です。

 

 「エンデの遺言」では、ミヒャエル・エンデは、現行の資本主義社会で自明とされているお金のあり方に疑問を投げかけ、その在り方について、「お金の役目」という視点から見た場合、適切な在り方なのか?という、思索を試みています。

 

 エンデは、金利やマネーゲームという、実体のある財やサービスとすっかり切り離されて取引される、金融の世界のお金にも目を向けました。

 

そうした取引に使われるお金は、実体のある財やサービスの交換の道具として使われるお金とは違う種類の、「別のお金」として扱われるべきだとしたのです。

 

パン屋のお金と、カジノのお金は違う」とエンデは言っています。shine

 

パン屋のお金と、カジノのお金はどう違うのか?

 

経済について考えている人であれば、気がつくはずです。

 

パン屋のお金とは、実体のある財やサービスの交換に使われるお金です。

 
つまり、労働の対価として支払われるお金のことです。bread

 
それに対してカジノのお金とは、まったく、実体のある財やサービスの生産と関係のない、単なる金融市場の参加者間でのお金の移動です。

 

「不労所得」という言葉は適切ではないと思いますが、金利などの、資産運用によって得られるお金というのは、労働を提供しなくても、ただ、「手元にあったお金を運用することによって得られるお金」です。

 

 たしかにエンデが思索したとおり、資本主義社会ではお金というものが、労働の対価として得られる場合と、まったく労働を提供しなくても得られる場合の、両方の取引に使われているのです。

 

エンデは最終的な結論は、示しませんでした。

 

 エンデが遺した様々な言葉から、読み手は自分で答えを探さなくてはいけません。

 

でも、その洞察を追っていくと、私たちは自然に、「もしも、実体のある財やサービスの交換の道具として使われているお金というものが、その一方で、財やサービスの生産から切り離された、金融取引という習慣によっても増やせる状態にある場合、社会における財やサービスの分配は、果たして全員に公平なものとなりえるか?」という疑問に当たります。sign02

 

これは私の考えですが、私は「お金の自己増殖が認められている社会では、社会の中の、実体のある財やサービスの公平な分配が歪んでしまう」と、考えています。libra

 

「お金」そのものが自ら増殖する、資産運用という習慣そのものが、社会における公平という観点から見直してみた場合、本来「あってはいけない習慣」ではないかと思うのです。

 

地球の過去を思えば、金利や株式会社という仕組みも、やむを得なかったという状況は感じますが、電子マネーさえ実現した現代以降の社会では、お金の自己増殖という現象は、いずれは廃止されていくべきものだと考えます。

 

この考え方はひとつの例ですが、たとえばこのような思考を進めて、資産運用という現象そのものを社会から否定することができたとしたら、はじめの企業統治の難問は、かなり整頓されます。shine

 

資産運用という状態そのものが存在しない社会では、企業は株主の資産運用の道具になり得ません。

 

企業は株主のものではなく、だから企業は、株主の資産運用の道具としての経営はしなくてもいいのです。

 

このように、経済学が自明として受け入れている「資産運用」という現象の否定がされた時、企業統治の問題は、株主の存在からは自由になり、企業は株主の道具であるという考え方から解放されます。flair

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