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2016年7月

生きた1票、死なせた1票

 何年か前、ある候補者に投票しました。

 

 その結果に私は満足しています。shine

 その候補者は当選し、その後たしかに国会で、私が望んでいるようなことを、何度も発言してくれました。

 

 発言の結果がどうなったかは、それほど問題ではありません。

 

 私の思いを、政治の場面で発言してくれている、ということに意味があります。

 

 それは私にとって、「代議制民主主義」がたしかに機能している状態だからです。

 

 味方の少ない国会で、その政治家が重要な発言をしてくれるのを見ている時、私は「自分が投じた1票は、たしかに生きたのだ」と感じます。

 

 なぜなら私は、そうした自分の考えや思いを、国会という場で、きちんと投げかけてくれる政治家を望んでいたからです。

 

 私は正しい選択をし、自分の1票を生かしました。shine

 そして、願わくばもっと大勢、少しでも多く、私の考えと近い議員が、国会の中に増えていってほしい!

 

 そう思っていました。

 

そこで、今回の参院選ですが、今回はまた別の、ある候補者に投票しました。

 

 その候補者は、先に話した政治家も後押しをしていた人です。

 

 本当は、ほかにも投票したい人がいたのですが、こちらの候補者の方が当選予想が高かったことと、また、普段私が良いと思っている人たちが複数、応援していたということもあり投票しました。

 

 私自身は一度も、その候補者の演説を聞いていないので、これはまったく人の評判を頼っての選択です。

 

 でも今回、その投票は失敗でした。down

 

 というのは、この候補者は選挙後に、ある言動が話題になったのですが、その言動は私にはとても、受け入れ難いものでした。

 

 そういう言動ができる人物であるということを知っていたら、私はおそらく投票しなかったことでしょう。

 

 選挙後に、その言動を知った時は、「貴重な1票を無駄にしてしまった…」と思いました。

 

 私が投じた1票は、死んだのです。thunder

 

 普通の有権者が選挙という形で政治に参加できる機会というのは、そうしょっちゅうあるわけではありません。

 

 それならば、自分が投じる1票は、少しでも自分の信条に沿っている候補者に投票したいものです。

 

 自分の考えと違っている候補者に投票してしまうということは、貴重な自分の1票を無駄にすることです。

 

 そういう意味では、私には、自分が投票した候補者が当選するか、落選するかは、あまり問題ではないのかもしれません。

 

 自分の価値観と合っていない人に投票してしまった時に、私は自分の1票が「死んだ」と思うのです。

 

 その反対に、自分の投票した候補者が落選したとしても、「私はあなたを支持しました」という表現が、得票数の1票という形ででも表れれば、私は多少であっても満足するのです。shine

 それにしても、今回のこの出来事では、ちょっと考えさせられました。

 

人の評判ではなく、やはり自分の目で見て、自分の耳で聞いて判断しなくてはいけない。

 

 また、いくら推薦者が、自分の考えと合っている人だったとしても、その推薦を鵜呑みにするのではなく、自分の感性であらためて判断をし直さなくてはいけない。

 

 そうしたことを、考えました。

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「限界効用逓減の法則」って、本当にあるのですか?

 もう5年ほども前のことです。

 

 ちょうどある大学の通信課程で経済学を学ぼうとしていた頃に、私がいちばんはじめにつまずいたのが「限界効用逓減の法則」でした。

 

 経済学では、「限界効用は逓減する」と考えるのです。

 

 限界効用というのは、何かを消費する時に、消費する量を1単位増やすごとに、その財(サービスも含むのかは不明です)に対するありがたみの増加量が、少なくなっていくという考え方です。

 

 これだけでもなんだかわかりにくいのですが、たとえばよく、ビールの消費などを例にして説明されます。

 

 1杯目のビールはおいしい、2杯目は少しおいしい、3杯目はもうおいしくない、4杯目はもういらない、ということです。

 

 衣類の冬物のコートなどを例にして、経済学の先生が説明することもあります。

 

 1枚目の冬物のコートはとてもうれしい、でも2枚目のコートはそれほどでもない、3枚目のコートだともういらない、という感じです。

 

 どうも経済学を勉強したければ、どうしてもこの「限界効用逓減の法則」という法則を認めなければいけないようなのです。

 

 そしてこの「限界効用逓減の法則」というのは、経済学の世界ではかなり重要な考え方らしく、いきなり先生が黒板に縦軸と横軸を書いて、グラフを書き始めます。

 

 そこには数式が出てきて、とても「学問らしい」雰囲気が漂ってくるのです。

 

 ところがこの「限界効用逓減の法則」というのは、初学者にとってはどうも、うさんくさい…。

 

 「そんなもの、本当にあるの?」と思います。

 

 また「ある」としても、それって、そんなに重要なことなのでしょうか?

 

 「法則」というからには、すべての財(サービスも含まれるのかは不明です)の消費にあてはまることでしょうか?

 

 初学者はそのあたりも気になるところですが、このことについても言及はありません。

 

 とにかく「法則がある」らしい…。

 

ただし「お金に関しては、限界効用逓減の法則はない」のだそうです。

 

 そうなると、ここでまた初学者は悩みます。

 

 「消費の話ではなくて、取得の話だったのかな???」。

 

 とにかくこんなに曖昧で、そんなものが本当にあるのかどうかも怪しげな「限界効用逓減の法則」をまず、「認めなければいけない」。

 

 これが経済学を学ぶ時の、最初の「関門」のようです。

 

 ここを乗り越えないと、経済学は学べないらしい…。

 

 「なんとかこれを、認めなければ!」。

 

 でも、本当にそんなもの、あるのかな?

 

 こうなると、ほとんど宗教の世界のような状態になってくるのですが。(笑)

 

 それで私としてはなんとか努力して、この関門を突破しようと、努力してみました。

 

 でもっ…。

 

 「もう、駄目!」。

 

 「私にはとても無理っ!」と感じて、とうとう投げ出してしまいました。(笑)

 

 私には経済学はとても無理です!

 

 なぜなら、一番はじめの「限界効用逓減の法則」を認めるということが、まず、できません。

 

 どうしても半信半疑で踏み込めませんでした。

 

 それでこの「限界効用逓減の法則」ですが、ある時期から不遜にも、「ああ、そんなもの、たぶん無い…」と思うようになりました。

 

 それは、ある発想をした時のことでした。

 

 たまたま雑誌か何かで、室内の床を拭く時に、アロマオイルを使って床を拭くという方法を知ったのです。

 

 水を汲んだバケツに数滴、ラベンダーなどのアロマオイルを垂らして、その水で床を拭くのだそうです。

 

 たしかに、かすかな良い香りが残るのかもしれません。

 

 ところでこの方法を知った時に、すぐに思ったのが「おそらく、『適量』があるはずだ」ということでした。

 

 アロマオイルというのは、作用は穏やかですが、量によっては人体に良くない場合もあるからです。

 

 その時に、はっとしました。

 

 限界効用逓減の法則というのは、あてはまらない財があるのです。

 

 例えば洗濯をする時の洗剤。

 

 一定量の洗濯物に対して、一定量の水と洗剤の量が、はじめから決まっています。

 

 洗剤の量が多すぎれば、今度は「ありがたみ」どころか、「洗剤がおちない」という、一種の「害」が起こります。

 

 もっと考えれば、医療用の薬です。

 

 たとえば、ある症状に対する薬は適量であれば、その症状を緩和しますが、適量を超えると人体に有害なものとなるでしょう。

 

 インフルエンザワクチンを注射する時に、限界効用逓減の法則で言われるような「ありがたみの減少」などありません。

 

 おそらく、体重に合わせた薬剤の量は、はじめからある程度の「適量」が「決まっている」はずです。

 

 薬の場合は、その適量よりも少なければ効かないでしょうし、それよりも多ければ今度は害になるのです。

 

 そうやって考えると、「限界効用逓減の法則」というのは、この「適量」に至るまでの経過として、一時的に、ある限られた財に対して現れる現象でしか、ないのではないでしょうか?

 

 この時は、経済学というものが何を見落としているのかが、まだ、まったくわかりませんでした。

 

 ただ「限界効用逓減の法則」という考え方に対して、私の頭の中で「適量」という考え方が浮かんできたのです。

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ガストンと結婚させられる気分って?(参院選)

 先週の、選挙の日の夜は最悪な気分でした。

 

 選挙については、夜までほとんど放送がありません。

 

 夜になって、外出先から帰宅はしたものの、テレビをつけるのも嫌でした。

 

 憲法9条を誇りに思い、ずる賢い人間が嫌いな私には、心のダメージが大きかったのです。

 

 それは、ディズニーの映画に例えて言うのなら、「美女と野獣」のヒロイン、変わり者のベルが、「脚本家の書き間違い」によって、粗暴なガストンと結婚する展開にされた、とでもいうような気分です。

(誰がベルなのかは、さておいて…。笑)

 

(たとえ醜くて、短気という欠点があるとしても、粗野で自惚れ屋で、頭が空っぽのガストンなんかより、本を大切に扱っている野獣の方がよほどましよ!笑)

 

 テレビをつけても、嫌な気分になるだけです。

 

 でも翌朝になって、朝からテレビで気分を害するというのも、かなり…、です。

 

 しかたなく、その晩のうちにテレビをつけました。

 

 どの局の放送を見ていても、嫌な気分です。

 

 さらには、選挙をバラエティ番組のように、笑わせて放送する局にはだんだん腹が立ってきて…。

 

 「ああ、もう!」と言いながら、リモコンのボタンをブチブチ、拳銃をうつようにうちまくってしまいます。

 

 でも、そのうちに気がついたら、気持ちはある局の放送におさまっていました。

 

 これなら、見ていても悪くありません。

 

 それはテレビ東京の、池上彰さんの「選挙ライブ」でした。

 

 当選者のコメントに、創価学会に日本会議。

 

 当選はしたものの、当選後に何をするかは決めていなかった当選者というのも、いるのですね。

 

(それでも、当選しちゃうんだ…。)

 

 ふうん、どうやって、言い逃れるつもりかしら?

 

(うんうん、尻尾が見えてますよ。)

 

 この放送については、「こんなものを、投票日に放送しても遅い!」という意見もあったようです。

 

 でも私はこの放送で、けっこう気持ちが救われました。

 

 池上彰さんの表情からは、この選挙結果によって、日本が大変な状況になったという認識が伝わってきたからです。

 

 一番怖いのはこの状況下で、すべての放送局が、「日本には何もおかしなことなど起こっていない」として、普通に選挙の放送を締めくくることでした。

 

 結局、他の局の放送は見ないで終わってしまったのですが、テレビ東京のこの放送がなければ、私の気分は「もっと最悪」になっていたことと思います。

 

 だって、もう一度「美女と野獣」のお話で考えてみてください。

 

 卑劣なガストンと結婚するはめになったベルの心情は、野獣とお城で暮らすどころではない、本当の「最低の最悪!」だからです。

 

 なにしろ、野獣とならば本を手に語り合うということができますが、ガストンときたら偉そうに、泥だらけの靴を履いた足を本の上に投げ出して、ベルに足をふかせようとするような男です。

 

 町の人たちは偉そうなガストンが好きかもしれませんが、ベルには本も大切にしない男など、耐えられません。

 

 それをまさか「なんでもないこと」として、世の中の誰にも認めてもらえなかったなら?

 

 変わり者にだって、好きと嫌いを尊重してもらえる権利はあるでしょう?

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参院選って、本当に今日ですか?!

 今日はいよいよ、日本が平和憲法を捨てる日なのだと思っています。

 

 さよなら、9条。戦争の放棄。

 

 予測が悲観的な私は、すでにもう心の中でお別れを告げています。

 

 選挙の行方は気になるところですが、朝から悲しい速報を聞いても、嫌な気持ちになるだけなので、あえてテレビはつけませんでした。

 

 9時過ぎにようやく、テレビをつけました。tv

 

 「どうせ、結果などわかっている…」、と思っていたのですが、意外にも。

 

 選挙のことは何も、放送していませんでした…。

 

 まるで、いつもの日曜日のように、音楽番組やアニメやバラエティ。

 

 見ているうちに、「江の島に遊びに行きたいな♪」って。

 

 参院選のことなど忘れて、遊びに出かけてしまいそう?!sun

 

(キュウリとライチのジェラートがおいしそうでした。笑)

 

 お家でゆっくり休んでいる人は、選挙のことなど忘れてしまうでしょう。

 

 そう言えば昨日の朝も、お気に入りの子ども番組を録画するために、テレビをつけましたが、やはり選挙の話題は「軽く」という程度しかありませんでした。

 

 これで夜になったら、開票結果だけが放送されるのでしょうか?

 

 経過は、放送されないの?

 

 たとえば、あるはずないとしても、集計に不正でもあったら、どうするの?

 

 大事なことを決める選挙の日なのに、なんて静かな夏の朝。

 税金を使って選挙をするのに、選挙に国民を誘わない?!thunder


 なんだかよくわからないけれど、「不思議の国、ニッポン?!」という言葉が浮かびます。()

 

 きっと70年ぐらい前にも変わらなかったであろう、青い空の下。

 

 真夏の一日が始まります。

 

 私は投票に出かけます。

 

 9条、もう、だめだとしても、待っていてね!

 

 ぎりぎりまできちんと、支えます。

 

shine(^^)shine

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黒田総裁はどうして物価の上昇を起こせなかったのか?

 日銀の黒田総裁は、大規模な金融緩和をもう3年も続けていますが、物価の2%上昇を達成することができません。

 

 物価の上昇が、良いことであるのかどうかはさておいて、このことについて、どうして物価が上昇しないのか、説明を試みてみたいと思います。

 

 実を言いますと、私の中ではこのことに対する答えは以前からありました。

 

 でもそれは言葉で表現しても、インパクトのない表現になってしまうので、あえて書こうという気持ちにもなれませんでした。

 

 ところが最近ある本に出会ったことで、かなりはっきりとした表現が見つかりました。

 

 ちなみにその本というのは、こちらです。

 

 この本の内容が、経済学の世界で正しいと考えられていることかどうかはわかりません。

 

 でもとりあえず、この本の著者は私と同じように、実物経済とマネー経済が、まったく別の種類の経済であるという認識を持っています。(著者の言葉では「金融経済」です。)

 

 先にその部分の説明を書きますと、実物経済とマネー経済は、同じ「お金」を使って、取引(お金の所有者の移動)がされていても、その取引の内容はまったく違います。

 

 実物経済は、財やサービスを持っている人から、別の誰かに財やサービスが提供される時に、お金は財やサービスと反対の方向に動きます。

 

 つまり財やサービスと、お金が「交換」されます。

 

 そして交換された財やサービスの方は、必ず消費されるか、あるいは減価を起こします。

 

 実物経済は、生産と交換と消費の流れの一部であり、人間の生存を支える経済です。

 

 ところがマネー経済の世界では、お金の所有者が変わる時、財やサービスとの交換は起こりません。

 

 そもそも財やサービスの生産ということも起こりません。

 

 マネー経済はただ、人間の世界の習慣や約束ごとに従って、お金の所有者が変わるだけという経済です。

 

 実物経済とマネー経済の違いは、それぞれの世界に実体のある財やサービスが存在するか、しないかです。

 この認識が、経済学の世界で一般的なものか、どうかは私にはわかりません。

 

 でもこの2種類の経済の違いというものが、ミヒャエル・エンデが言うところの、「パン屋のお金とカジノお金」というほどの違いであることは、私にもわかります。

 

 「パン屋のお金」は、財やサービスを生産した結果による経済です。

 

 それに対して「カジノのお金」とは、財やサービスの生産と関わりなく、ただお金だけがその所有者を変えていく経済です。

 

 そこで、黒田総裁の話に戻りますと、黒田総裁は金融緩和は続けていますが、緩和したお金がこの2種類の経済ネットワークの、どちらに流れて行くのかをまったく考慮していません。

 

 黒田総裁の理論では、金融を緩和すれば、自動的にそのお金は実物経済に流れ込み、物価を上昇させるものだと考えられているようです。

 

 でも実際には、日銀から緩和によるお金を受け取る民間銀行は、その後に実物経済にお金を送るか、マネー経済にお金を送るかの選択が可能です。

 

 そして実物経済の世界には、実体のある財やサービスが存在しているため、そこには、実際に財やサービスの移動が進行する時の速度が存在しています。

 

そのために、その速度以上のお金は、いくら緩和をされても吸い込むことができないのです。(このことはまた、別の機会に記事にします。)

 

 そのため、緩和によるお金を受け取った銀行は、実物経済にお金を送ることはできず、マネー経済に送って、ひとつの企業としての利益を上げるよりほかにありません。

 

 物価が上昇しないのは、緩和されたお金が実物経済に入っていないためです。

 なぜなら物価というのはモノの値段のことであり、財やサービスが存在している実物経済の世界に存在するものだからです。

 

 黒田総裁は、緩和の効果がまだ出ていないためだと考えているようですが、そうではありません。

 

 財やサービスが存在しないマネー経済の世界にお金をいくら送っても、もともと財やサービスが存在しないので、物価の上昇しようがないのです。

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