生きた1票、死なせた1票
何年か前、ある候補者に投票しました。
その結果に私は満足しています。
その候補者は当選し、その後たしかに国会で、私が望んでいるようなことを、何度も発言してくれました。
発言の結果がどうなったかは、それほど問題ではありません。
私の思いを、政治の場面で発言してくれている、ということに意味があります。
それは私にとって、「代議制民主主義」がたしかに機能している状態だからです。
味方の少ない国会で、その政治家が重要な発言をしてくれるのを見ている時、私は「自分が投じた1票は、たしかに生きたのだ」と感じます。
なぜなら私は、そうした自分の考えや思いを、国会という場で、きちんと投げかけてくれる政治家を望んでいたからです。
私は正しい選択をし、自分の1票を生かしました。
そして、願わくばもっと大勢、少しでも多く、私の考えと近い議員が、国会の中に増えていってほしい!
そう思っていました。
そこで、今回の参院選ですが、今回はまた別の、ある候補者に投票しました。
その候補者は、先に話した政治家も後押しをしていた人です。
本当は、ほかにも投票したい人がいたのですが、こちらの候補者の方が当選予想が高かったことと、また、普段私が良いと思っている人たちが複数、応援していたということもあり投票しました。
私自身は一度も、その候補者の演説を聞いていないので、これはまったく人の評判を頼っての選択です。
でも今回、その投票は失敗でした。
というのは、この候補者は選挙後に、ある言動が話題になったのですが、その言動は私にはとても、受け入れ難いものでした。
そういう言動ができる人物であるということを知っていたら、私はおそらく投票しなかったことでしょう。
選挙後に、その言動を知った時は、「貴重な1票を無駄にしてしまった…」と思いました。
私が投じた1票は、死んだのです。
普通の有権者が選挙という形で政治に参加できる機会というのは、そうしょっちゅうあるわけではありません。
それならば、自分が投じる1票は、少しでも自分の信条に沿っている候補者に投票したいものです。
自分の考えと違っている候補者に投票してしまうということは、貴重な自分の1票を無駄にすることです。
そういう意味では、私には、自分が投票した候補者が当選するか、落選するかは、あまり問題ではないのかもしれません。
自分の価値観と合っていない人に投票してしまった時に、私は自分の1票が「死んだ」と思うのです。
その反対に、自分の投票した候補者が落選したとしても、「私はあなたを支持しました」という表現が、得票数の1票という形ででも表れれば、私は多少であっても満足するのです。
それにしても、今回のこの出来事では、ちょっと考えさせられました。
人の評判ではなく、やはり自分の目で見て、自分の耳で聞いて判断しなくてはいけない。
また、いくら推薦者が、自分の考えと合っている人だったとしても、その推薦を鵜呑みにするのではなく、自分の感性であらためて判断をし直さなくてはいけない。
そうしたことを、考えました。
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