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2016年8月

法制史

 ある場所で、日本法制史の先生のお話をお聴きすることができました。

 

 この最近、私は法律というものについて、考える機会が増えています。

 

 2012年に政権が変わってから、憲法をはじめとする日本の法律というものが、とても意識されるようになりました。

 

 法律というのは、平和な社会ではほとんど気にしなくてもいいものだけど、世の中が変わろうとする時には、強く関心を持って、注目しておかなくてはいけないものだと思うようになりました。

 法制史というのは、制度の歴史なので、はじめは昔の話から始まります。

 

 はじめはちょっと古いお話なので、あまり関心がわきませんでした。

 

 ところが最後には、私の思考の殻が打ち破られ、新しい世界が開がれていくような強烈な感覚に飲みこまれました。shine

 

 わずか数十分。

 

 会場に入った時の私と、出てきた時の私は、少し違う私に変わってしまいました…。sign03

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「百合子さんの絵本」というドラマ

 7月31日にNHKで放送された「百合子さんの絵本」というドラマが、再放送されます。

 

 反戦のドラマとしても、また夫婦の愛情のドラマとしても、とても良いドラマだったのですが、私には少し状況の背景が難しく、つかみきれないところがありました。

 

 今度はしっかり見たいと思います。

shine(^^)shine

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終戦スペシャルドラマ「 百合子さんの絵本~陸軍武官・小野寺夫婦の戦争~」

 

http://www4.nhk.or.jp/yurikosan/#

 

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平和を楽しむ(大田区「花火の祭典」)

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 今年の終戦記念日は、あまり終戦記念日の気分がしませんでした。

 テレビの番組表は、ほとんどリオとSMAPと高校野球で埋まっていたようです。

 
楽しいことはいいことですが、それにしても、まだほんの71年前の戦争をすっかり忘れてしまったかのような雰囲気には、かなりの違和感がありました。

 夜は、大田区の平和都市宣言記念事業である「花火の祭典」を見に行きました。

 前日の天気予報では、夕方からの雨が心配でしたが、幸い、風が強い程度のお天気で開催されました。

 

 蒸し暑い草原で、私にしてはめずらしく人ごみの中、花火を見上げていると毎回、平和であることの幸せを感じます。

 

 平和というのは、普通に生活を楽しめることだと思うのです。shine

 誰かに生活の楽しみを壊されることがなく、誰かに苦痛を強いられることもなく、安心して、安全に普通の生活ができること。

 

 近くのビニールシートでは、若い人たちのグループが赤ちゃんを抱きながら、ビールを片手に楽しそうでした。

 

 時々、歓声が上がります。

 

 日本はまだまだ、本当の平和とは言えないけれど、幸い、積極的に他国の幸せを破壊しているというわけでもありません。

 この花火の祭典は、毎年必ず8月15日の終戦記念日に行われます。

 

 テレビは戦争を忘れるかもしれませんが、この花火大会はいつまでも、戦争を忘れず、同時に平和のありがたみを感じさせてくれるイベントであり続けてほしいと思います。

 

大田区は昭和59年に世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を願って、平和都市宣言を行っているそうです。

 

大田区は、モノづくりの街として、それから平和都市宣言の街としても、カッコいいですネ♪

 

今年も見事な花火を楽しみました。

 

shine(*^^*)shine

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大学(通信制)をやめる準備

 現在、ふたつの通信制の大学に所属しています。

 

 昨年トラウマが治ってから、だんだんと健康状態も整いはじめ、そろそろ未来のことを考えてもいい頃だろうということで、その通信制の大学についても、そろそろ決めようと思っています。

 

 たぶん、これ以上時間をかけて在籍していても、私は勉強しないと思います。

 

 だから、ふたつともきっぱりとやめてしまうのがいいと思います。

 

 でもどうしてか少し、気持ちを引きずるものもあり、スパッと決断ができません。

 

 ふたつの大学のうちひとつは、8月のうちに、もうひとつも9月中には決めなくてはいけません。

 

 もうあまり時間もないのですが、あとは私の執着心を断ち切るだけです。

 

 さみしいような、叶わぬ夢を捨てるような…。

 

 8月だけど、季節はもう秋。

 

 勉強する気もないくせに、私はどうしてさみしく思うのでしょう。

 

 きれいな夕焼けを見ているのにどうしてか、自分が誰であったのかを忘れてしまったような気持ちになりました。

 

 地面の上しか歩けない。

 

 この生活だって、それほど悪くもないのですが…。

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「絶対悪」という概念と平和の祈り

 さきほど、平和記念式典の放送を見ながら黙とうしました。

 

 その後に、広島市長の言葉を聞き、私は恥ずかしながら、はじめて「絶対悪」という概念を知りました。

 

 目を開かれるような気持ちがしました。

 

 「平和を祈る」ということは、20代前半からある宗教の会員であった私には、日常的なことでした。

 

 私はことあるごとに「世界人類が平和でありますように」と祈っていました。

 

 365日、いつでも、でした。

 

 でも今朝、「絶対悪」という言葉を知った時、私は、自分が過去に祈りながら、自分が望んでいた平和な社会というものが、いったいどういうものであったかを知ったのです。

 

 言い換えれば、その瞬間まで私は、自分が望んでいる平和というものが、いったいどういう状態のことを言っているのか、自分でも、それほど明確ではなかったということです。

 

 「絶対悪」のない世界。

 

 この「絶対悪」という言葉も、考えることが好きな人たちの手にかかると、たちまち何がなんだかわからなくなってしまいますが、今はその点はつき詰めずに、話を進めます。

 

 「絶対悪」のない世界。

 

 私にとっては、殺人や人権侵害、人間の心身への暴力のない世界といったところでしょうか?shine

 
これは今、即座に考えた定義なので、あとからもっと出て来るかもしれません。

 

 でも、私が長年、自覚もせずに望んでいた「平和な社会」とは、つまりそういうことだったのです。

 

 いかなる理由があろうと、人間が、たいした理由もなく、他の人間の人権を侵害してはいけないと思うのです。

 

 そして、人権というものは、尊重されなくてはいけないと思うのです。

 
こんな風に書くと、人間の拘束という問題に関して、「(絶対悪という基準による)悪いことをする人にだって、自由でいる権利があるじゃないか」という人もいるかもしれません。

 

でも、それは違います。

 

 なぜなら「(絶対悪という基準による)悪いことをする人」というのは、他者の人権を侵害する人なので、社会の中で自由にさせておいたら、他者の人権が侵害されてしまうからです。

 

 他者には人権を侵害されない権利があり、それを実現させるためには、「他者の人権を侵害する人」を自由にさせないようにするしか方法がありません。

 

 つまるところ、この話は、「他者の人権を侵害してもいいと考える人」と、「他者の人権を侵害してはいけないと考える人」が、同じ社会の中でどう共存していくかという問題だと思うのです。

 前者は自分の人権は主張したいが、他者の人権は侵害したいと考えている。

 

一方後者は、自分の人権も、他者の人権も侵害されてはいけないと考えている。

 

 そこには、両者の間の「折り合い点」はありません。thunder

 一部の人の人権だけなのか、それとも全員の人権なのかというふたつの考えは、同時に存在できないからです。

 

 平和を祈りながら、こういうことを書くのはおかしいようですが、最近は「平和を守るための戦い」というものも、存在すると考えるようになりました。

 

 「戦い」と書きますと、すぐに「武器を持って」とか発想しそうですが、そうではなくて「絶対悪」は行わず、「平和でありたい」という主張をし、意思表示をするということが、私の考える「戦い」です。

 

 広島市長の話の中に、18歳で被爆した女性の言葉がありました。

 

 たしか、後世の人に伝えたいこととして、「核はいけない」と言ってほしいという意味のことでした。

 

 それが、被爆をしていない人が、自分の生命を活かす道になるというのです。(記憶が曖昧です。間違っていたら、すみません。)

 

 これは、私にとっては衝撃的な発想でした。

 

 「『いけない』と言う」ということが、そもそもひとつの、社会に対する「運動」だったと気づいたからです。

 

 何も言わずに黙っているのではなくて、平和に反することに対して「いけない」と言う、ということだけでも、平和への積極的な行動だったのです。

 広島市長のお話はそれほど長いものではありませんでしたが、大変、心に響くものでした。

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