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「絶対悪」という概念と平和の祈り

 さきほど、平和記念式典の放送を見ながら黙とうしました。

 

 その後に、広島市長の言葉を聞き、私は恥ずかしながら、はじめて「絶対悪」という概念を知りました。

 

 目を開かれるような気持ちがしました。

 

 「平和を祈る」ということは、20代前半からある宗教の会員であった私には、日常的なことでした。

 

 私はことあるごとに「世界人類が平和でありますように」と祈っていました。

 

 365日、いつでも、でした。

 

 でも今朝、「絶対悪」という言葉を知った時、私は、自分が過去に祈りながら、自分が望んでいた平和な社会というものが、いったいどういうものであったかを知ったのです。

 

 言い換えれば、その瞬間まで私は、自分が望んでいる平和というものが、いったいどういう状態のことを言っているのか、自分でも、それほど明確ではなかったということです。

 

 「絶対悪」のない世界。

 

 この「絶対悪」という言葉も、考えることが好きな人たちの手にかかると、たちまち何がなんだかわからなくなってしまいますが、今はその点はつき詰めずに、話を進めます。

 

 「絶対悪」のない世界。

 

 私にとっては、殺人や人権侵害、人間の心身への暴力のない世界といったところでしょうか?shine

 
これは今、即座に考えた定義なので、あとからもっと出て来るかもしれません。

 

 でも、私が長年、自覚もせずに望んでいた「平和な社会」とは、つまりそういうことだったのです。

 

 いかなる理由があろうと、人間が、たいした理由もなく、他の人間の人権を侵害してはいけないと思うのです。

 

 そして、人権というものは、尊重されなくてはいけないと思うのです。

 
こんな風に書くと、人間の拘束という問題に関して、「(絶対悪という基準による)悪いことをする人にだって、自由でいる権利があるじゃないか」という人もいるかもしれません。

 

でも、それは違います。

 

 なぜなら「(絶対悪という基準による)悪いことをする人」というのは、他者の人権を侵害する人なので、社会の中で自由にさせておいたら、他者の人権が侵害されてしまうからです。

 

 他者には人権を侵害されない権利があり、それを実現させるためには、「他者の人権を侵害する人」を自由にさせないようにするしか方法がありません。

 

 つまるところ、この話は、「他者の人権を侵害してもいいと考える人」と、「他者の人権を侵害してはいけないと考える人」が、同じ社会の中でどう共存していくかという問題だと思うのです。

 前者は自分の人権は主張したいが、他者の人権は侵害したいと考えている。

 

一方後者は、自分の人権も、他者の人権も侵害されてはいけないと考えている。

 

 そこには、両者の間の「折り合い点」はありません。thunder

 一部の人の人権だけなのか、それとも全員の人権なのかというふたつの考えは、同時に存在できないからです。

 

 平和を祈りながら、こういうことを書くのはおかしいようですが、最近は「平和を守るための戦い」というものも、存在すると考えるようになりました。

 

 「戦い」と書きますと、すぐに「武器を持って」とか発想しそうですが、そうではなくて「絶対悪」は行わず、「平和でありたい」という主張をし、意思表示をするということが、私の考える「戦い」です。

 

 広島市長の話の中に、18歳で被爆した女性の言葉がありました。

 

 たしか、後世の人に伝えたいこととして、「核はいけない」と言ってほしいという意味のことでした。

 

 それが、被爆をしていない人が、自分の生命を活かす道になるというのです。(記憶が曖昧です。間違っていたら、すみません。)

 

 これは、私にとっては衝撃的な発想でした。

 

 「『いけない』と言う」ということが、そもそもひとつの、社会に対する「運動」だったと気づいたからです。

 

 何も言わずに黙っているのではなくて、平和に反することに対して「いけない」と言う、ということだけでも、平和への積極的な行動だったのです。

 広島市長のお話はそれほど長いものではありませんでしたが、大変、心に響くものでした。

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