エンデが遺したお金のなぞなぞ

時間どろぼうと「簿記」という出入口

 現在の単発の仕事は、10年ほど前に派遣で働いていた企業が入っているビルと、まったく同じビルでの仕事です。

 10年前、私はそのビルの高層階にある外資系企業で、時給1650円で働いていました。残業が多くひと月あたり税込みで40万円ほど稼ぐこともありました。

 それに対して今度の仕事は低層階で、時給900円のお仕事です。10年前と同じ時間分働いても、稼げるお金は6割程度でしょう。

 同じビルで働いているのに、状況がものすごく違います。時代も約10年、違っているのですが。

 はじめての午後から夜の勤務でした。
 夜型の私は、はじめのうちは「これも悪くない」と思っていましたが、そのうちに睡眠のリズムが崩れてしまいました。昼間でも身体が眠ってしまい、動けません。

 ある日「少しつらい…」と思いながら、子どもの頃のことを思い出していました。

 父はブルーカラー・ワーカーで、シフト勤務でした。朝、夜、深夜、朝昼とおしという、いくつかの勤務時間があり、お給料は良いのですが、睡眠のリズムが崩れてしまうので、休日もあまり体調が良くないようでした。勤務がきついと慢性的な頭痛に悩まされます。

 それは、まだ子どもだった私が、そのまま自分の目で見た資本主義社会の一場面でした。

 「世の中って、あんなにたくさん働かないと生きていかれないのだ」と、子ども心にも思いながら、疲れている父の表情を見ていました。

それが「エンデの遺言」を追うようになった私の原点です。

 世の中は、高層ビルに似ています。

 高層階に住む人たちは、華やかで、安全で、豊かなフロアしか知らないし、低層階に住む人たちは、世の中に失業があることや、どれほど働いても豊かになれないことを、普通のこととして見ています。

 低層階では本当に、ミヒャエル・エンデが表現した「時間どろぼう」が存在していて、この階層では「食べていくだけ」で一生を終わってしまう人」もいます。

賃金が安いので、ただ生きていくだけの収入を得るのに、たくさんの時間を使ってしまうのです。

 低層階では、賃金が安い仕事か、あるいは失業という選択肢しかありません。

そして低層階の仕事は賃金が安いだけでなく、きつかったり、あるいはとても忙しいのです。誰もがノルマに追われ、あまりにものすごいスピードで仕事をこなすので、仕事に愛情を込める余裕がありません。きっと時間どろぼうのしわざです。

 低層階の人たちは決して能力が低いわけでもないのに、どうしてかそうなってしまうのです。

 ケインズは低層階を見に来てくれました。

ケインズは高層階と低層階と地下も見て、高層階で眠っていたお金を、低層階に呼ぼうとしてくれたと思います。低層階にお金が流れ込めば、社会の血液は回り出し、失業者は再び雇用を得て、少なくとも生きていかれます。

 私が「エンデの遺言」を追いたいのは、低層階で働く人たちのぬすまれている時間を取り戻したいからです。そうすれば低層階に、穏やかな時間の流れが戻ってきて、誰もが自分の仕事を愛し、本当に心をこめた仕事ができるようになるからです。

 「エンデの遺言」は、私が知った時にはもうすでに、経済学者や経済評論家が注目していました。地域通貨、ゲゼル・マネーなど、私もいずれはその人たちの理解を追うのだと思っていました。

 ところが意外なことに、私はいつのまにかそうした流れから離れてたった一人、「簿記」という不思議な出入口の前に立っています。

 企業が利益を出して、株主配当を生み出そうとする時、労働者の賃金は抑えられ、さらには労働に従事する人数が減らされます。そうすると労働者は同じ量の仕事を、少ない人数でやり遂げなくてはいけなくなり、仕事の高速化が求められ、さらには株価を高くするために、もっと効率化が望まれる…。

 簿記は、語ります。

 エンデが語った時間どろぼうの出入口は、簿記の世界の中にあるのではないでしょうか?

 私は、ぬすまれた時間を取り戻したいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

次の大恐慌の時は「ウシロムキニススメ」

 ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる「さかさま小路」は、私たちが普段使っているお金への、強すぎる信頼のお話だと思います。

 私たちは普段「お金がなくては、生きていけない」と思っています。

でもよく考えてみて下さい。お金はそれ自体では、食べ物にもメモ用紙にも使えない、ただの紙っ切れです。せいぜい折り紙をしたらおもしろい♪という程度の紙です。

 そんなものがなくなったって、実際に私たちが食べるパンとかお肉とか野菜とか、それから衣類とか、家などが手に入れば、私たちはちゃんと生きていかれると思いませんか?

 お金という紙っ切れは、そういう実際に必要なものを手に入れるために、一時的に必要になるだけのものです。

 もしもそういう紙っ切れをとおさなくても、必要なものやほしいものがちゃんと手に入るのならば、わざわざそんな紙っ切れがなくなったところで、何もこわくなどないですよね?

 でもそれなのにお金がないと、私たちはとても困ってしまいます。どうしてこんな紙っ切れがないだけで、私たちは餓えてしまったり、命を絶ってしまうのでしょう?

 それはお金そのものが重要なのではなくて、お金が果たしている何かの役割が重要だからです。お金の形ではなくて、お金が果たしている役目の方が大切なのです。

 それならば世の中からお金が消えてしまった時は、私たちはほかの方法で、その役目を補えればいいと思いませんか?

 たとえばこういうことを、考えてみて下さい。

 自然災害による飢饉と、世界大恐慌は、何が違うのか?

 自然災害による飢饉では、本当に食べ物がなくなります。だからどんなお金持ちでも、お金で食べ物を買うことはできなくなります。なぜなら本当に、その地域に食べ物が存在しなくなり、買えなくなるからです。

 でも世界大恐慌の時は違いました。

人々はお店に商品があったのに、お金がなくて買うことができませんでした。お金が世の中から姿を消してしまったのです。お金が普段果たしていた役目が、果たされなくなってしまったのです。

でもその時、もしも人々が気づいていたら?

「大切なのは、お金じゃない。お金が果たしていた役目の方が大切だったんだ。それならばお金の代わりに、同じ役目を果たせる何かを考えればいいのだ」と気づいていたら?

 そのことに気がついた人たちは、地域通貨という代理のお金を使って、一時的にでも、危機を乗り越えたそうです。お金という拘束から自由になれたのです。

 人間はお金という紙っ切れがなくても生きられます。

 人間はお金という紙っ切れがなくても、食べ物があり、着るものがあり、住む家があれば、生きられます。問題は、みんなで交換が上手にできるかどうかです。

 世界大恐慌の時は、ほとんどの人がお金を信じ過ぎていたために、本当にひどいことになってしまいました。

 もしも未来にまた、同じようなことが起こりそうになったらその時は。

「ウシロムキニススメ!」です。

 私たちは「さかさま小路」を通りぬけるように、「大切なのはお金じゃない。みんなで作った野菜や食べ物や生産物だ。それからみんなの働く力だ。みんなの働く力さえあれば、みんなで作って交換して、なんとかなる」と呪文のように唱えながら。

「お金なんかなんだ! お金なんか、私たちをしばれない! 私たちは交換さえできれば生きられるんだ! みんなで方法を考えて、作ったものを上手に交換しよう!」。

 人間は今までお金ばっかりを見てきました。でもこれからはそうではなくて、ウシロムキに、ウシロムキに。

お金にしばられていた価値観を手放しながら、本当に人間を生かしてくれる食べ物や着る物や住む家の方を見ながら進んでいくのです。

 どうしたらせっかく生産した食べ物や着る物やお家を無駄にせずにすむだろう?
 どうしたら働ける人たちの力を、社会に生かしていけるだろう?
 
どうしたらみんなで生きられるだろう?

人間は、人間を傷つけるお金から、自由にならなくてはいけないのです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「さかさま小路」があらわすもの

 ミヒャエル・エンデの「モモ」には、不思議な場面がいくつかあります。「さかさま小路」もそのひとつです。

 さかさま小路では、時間が逆向きに流れます。モモは、時間をつかさどる老人マイスター・ホラの住む家に行こうとしますが、向かい風に立ち向かうような感じになって、うまく進めません。強い圧力がかかってくるのです。そこに案内役のカメであるカシオペイアが「ウシロムキニススメ」と教えてくれます。言われたとおり、モモは後ろ向きになって歩いてみます。そうするとすっかりらくに進めるのです。

 「モモ」が経済について語っている物語であると知っている人には、この場面はとても印象的です。何か、意味があるのではないか?という気持ちにさせられるのです。

 実際に経済評論家の森野栄一さんは、この場面を経済における利子率のお話に重ねて説明をしています。貨幣に持ち越し費用が課される世界が、後ろ向きに進んでいる状態なのだそうです。

 経済の知識がないとこの説明は難しいのですが、専門家の見解ですので、おそらくそうなのだと思います。

 ただエンデの世界というのは、私たちが現実に生きている世界とは別次元の世界から、ひとかたまりの情報を、抽象画のように表現しているようなところがありますので、この場面の説明としては、ほかにもいろいろ、何か意味があるのではないか?と、私は以前から思っておりました。あまりにもこのモチーフがはっきりと、強く表れ過ぎているからです。おそらく経済の専門家だけでなく、普通の人たちにもよくわかる何かが表現されているという気がしていたのです。

 最近になってようやく、それはこのことではなかったか?と、思い当たるようになりました。

 さかさま小路が意味しているものを、現実の世界の事象として捉える時、とてもわかりやすい2つの見方が見つかります。

 1つは現在の私たちのような社会の場合に、お金を貯め込むことへの警告です。

 私たちの社会では、お金は中央銀行と普通の銀行だけしか発行することができません。社会におけるお金の量が限られているのです。

この限られている状態で、社会の多くの人々が「お金を貯めなくては、貯めなくては!」と言って、お金を貯め込んでしまうと、私たちの社会は、社会全体で貧しくなってしまうのです。理由は、社会の人たちが生産した財やサービスを交換するためのお金がなくなってしまうからです。

 お金がみんな財産になってしまい、世の中に流れていかないと、私たちはせっかく生産した農産物や工場の製品を売ったり買ったりすることができなくなります。景気が悪くなってしまうのです。このことは経済学者も認めています。

 その反対に私たちが、「お金を使わなきゃ、使わなきゃ!」と言って、どんどんお金を手放すと、私たちの社会は豊かになります。生産した農産物や製品が、どんどん売れて景気が良くなるからです。(ただし貧しい人が無理をしてまでお金を使う必要はありません。お金を余るほど持っている、豊かな人に使ってもらいましょう。)

 「お金を貯めなくては!」というのが、向かい風に向かって進んでいる状態です。その反対に「お金を使っちゃえ!」というのが、後ろ向きに進んでいる状態です。

 もう1つの意味は、お金を大切に思いすぎる価値観です。

 社会全体で「お金がなくては大変だ」とか、「お金がなくては生きていけない」と思えば思うほど、私たちはお金に振り回されてしまって、「世の中の役に立つものを生産する」という経済の本質を見失います。

 その反対に、「お金なんかなんだ!」とか「お金なんかただの紙っ切れじゃないか!」と気づけば気づくほど、私たちは経済の本質に気がつきます。

 「お金がないならほかの方法で、みんなで作った生産物や労働力を交換すればいい!」。

 そう気がついた時、私たちはマイスター・ホラが住む「どこにもない家」の前に立ちます。

 「お金から自由な経済」は、もう目の前です。

*資料は「自由経済研究第14号 エンデの遺産」(ぱる出版)より、「『モモ』、人間とその経済の、回復の物語」(森野榮一著)です。

モバイルリンクはこちらです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

005.「モモ」というなぞなぞの答えは出た?

 ところでこのエンデが遺していった「モモ」というなぞなぞの答えなのですが、最近になって私は「もしかして、なぞなぞの答えを解いちゃった?!」と思ったのです。それで私が思いついた答えが本当にそうなのかどうか、誰かお金のことについてよく知っている人で、さらにまたなぞなぞが得意な人に尋ねてみたくてたまりません。

 私が「こうじゃないかな?」と思っている答えを先に、書きますね。

 「ええっ、答えを先に言われたらつまらない!」と思う人もいるかもしれません。

 でもだいじょうぶです。エンデのなぞなぞは、エンデの作品がひと言では説明できないのと同じぐらい、ひとつのなぞなぞが解けても、まだまだなぞなぞのような状態が続くからです。

 それに私が今「解けたかな?」と思っている答えだって、もしかしたらこの先にまた何か矛盾が見つかって、「やっぱり違っていた」となるかも知れません。先に言ってしまっても十分だいじょうぶです。なぞなぞはまだまだ、たっぷり楽しめます。

私が「解けた?!」と思っている答えは、こういうものです。それは…。

続きを読む "005.「モモ」というなぞなぞの答えは出た?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

004.「モモ」というなぞなぞを解く意味について

 「モモ」という物語が、単なる人間の時間について語られた物語ではなくて、私たちが生きている資本主義社会について語られた物語であるということになると、この物語は私たちの現実的な社会について、何か関係があるお話なのかな?という気もしてきます。

 というのは物語の中で少女モモは、人間の時間をぬすんでいる時間どろぼうと対決し、その戦いに勝って、ぬすまれていた人間の時間を解放しているからです。

 もしかしたら「モモ」の物語の中で描かれている、時間とお金の不思議なつながりを読み解くことで、私たちは、この数十年ますます激しさを増している、息もつけないような熾烈な競争社会から抜け出して、物語の中で描かれていたような、人間の時間がたっぷりとあって、みんなが楽しく暮らせる社会が作れるようになるのかも知れません。

 おもしろいことにエンデは「モモ」の物語のあとがきの場面で、とても不思議なことを書いています。

(引用始め)
 わたしが長い旅に出ているときのことでした(今でもその旅はまだ続いていますが)。ある夜、わたしは汽車でひとりのきみょうな乗客とおなじ車室にのりあわせました。きみょうと言ったのはほかでもありません。そのひとがおよそ年齢のさっぱりわからない人だったからです。
(引用終わり)

 エンデは「モモ」のお話を、このなぞめいた旅行者から聞いて書いたのだとしています。そしてこの人は、もっとなぞめいた言葉をエンデに言っていて、エンデはその言葉を読者に伝えたかったと言うのです。その言葉は本当に、とても不思議なものでした。

(引用始め)
 「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去に起こったことのように話しましましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。私にとっては、どちらでもそう大きな違いはありません。」
(引用終わり)

 エンデの世界はファンタジーの世界なので、私の印象にはたしかな根拠などありません。でも人間が、時間どろぼうにぬすまれていた時間を取りかえせるということが、未来のどこかで起こるとしても、おかしくないという気持ちがしませんか?

 そしてこの不思議ななぞなぞのヒントは、私たちがまだ一度も見たこともない、どこか世界の遠くにある、見知らぬ何かにあるのではなくて、私たちが毎日使っているお金と、時間の関係の中にあるかも知れないと思うのです。

(資料は岩波書店「モモ」ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳を使用しました。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

003.「モモ」という、お金と時間の不思議ななぞなぞ

 エンデの作品である「モモ」が、経済のことを意識して書かれたお話であることは、間違いありません。

 ヴェルナー・オンケンさんという経済学者は、「モモ」が経済の、それもお金についてのお話であることを見抜いた最初の人だそうです。オンケンさんは「経済学者のための『モモ』入門」という論文の中で、そのことについて書いています。

 オンケンさんの説明によると、「モモ」の物語の中に出てくる「時間どろぼう」というのは、金利生活者という人たちのことだと言うのです。そして「モモ」の物語の中に出てくる、時間をぬすまれていてとても忙しく、毎日を空しく暮らしている人々のあり様というのは、現代資本主義がもたらしたものだと言います。

 「時間どろぼう」という存在が金利生活者という人びとのことだというのは、正直に言ってよくわかりません。でも「時間どろぼう」に時間をぬすまれている人たちというのは、現代資本主義のせいだというのは、なんとなく私たちにもわかると思います。

毎日「速く、速く!」とせかされながら仕事をし、その日にできた仕事の量を測られて、「お前は遅い!」と注意され、仕事をクビにされてしまう人が、私たちの社会には存在します。たしかにいつでも私たちの社会は何から何まで、せかせかとした競争社会です。

 オンケンさんの説明によると、資本主義社会である私たちの社会がそのようなことになってしまっているのは、時間どろぼうが「人間から時間を盗み、それを貨幣の形で<凍ら>せ、生と死から時間を奪い取っている」からなのだそうです。

 オンケンさんの論文にはもっといろいろな、興味をひかれるような説明も書かれてあるのですが、私にはこれぐらいしか読み解けません。

 ところでまたしても、なぞなぞのようなことになっています。今度はオンケンさんがなぞなぞを出しているようにも見えてきます。ヒントは「金利生活者」、それから「現代資本主義」、「お金を凍らせる」というあたりです。オンケンさんの説明では、私たちの社会で使っているお金のシステムが、お金を凍らせる機能を持っているために、私たちの時間がお金の形で奪われ、どこかに凍らせられていて、そのために私たちはこんなに忙しいのだと言うのです。いったい私たちの時間とお金は、どこでどうつながって、私たちの気がつかない間に「どろぼう」されているのでしょう?

 このなぞなぞは、ちょっと手に負えないぐらい大きななぞなぞだという気もするのですが、なんだかとてもおもしそうだと思いませんか?

 お金なら、私たちは毎日、必ず使っています。このお金が「凍る」って、いったいどういうことなのでしょう?

(資料は「自由経済研究 第14号」/ゲゼル研究会編集、ぱる出版発行の中の、「経済学者のための『モモ』入門」を使用しました。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

002.「エンデの遺言」をまだ知らない人へ

 ドイツの児童文学者、ミヒャエル・エンデは1995年に亡くなりました。ミヒャエル・エンデの名前は、たくさんの人が知っていると思います。「モモ」や「ジム・ボタンの機関車大旅行」、「はてしない物語」などの作品で有名な作家です。

 亡くなる1年半前、エンデは日本のNHKの取材に応じた、ある録音テープを残していました。それは私たちの社会における、「お金」のあり方について語ったものでした。その内容は1999年にテレビ番組として構成され、「エンデの遺言」というタイトルで放送されました。

(私たちの社会における)「問題の根源はお金にある」と、エンデは言ったそうです。

 この「問題の根源はお金にある」という意味は、「みんな、お金がない」とか、「お金持ちはずるい」とか、そういう意味ではありません。私たちが使っている「お金」というものそのものが、何か、私たちの社会をうまくいかないようにさせる、原因を持っているのではないか?という意味です。だから私たちはこの「お金」というものを、もっと人間が幸せになれるような仕組みに、作りなおした方がいいのではないか?と、エンデはそのようなことを言うのです。

 「エンデの遺言」が放送されたことにより、私たちが普通では知らなかったような、不思議なお金のことが、かなりたくさんの人に知られるようになりました。不思議なお金というのは、お金を持っているとどんどん使える金額が減っていくという「スタンプ貨幣」というお金とか、特定の地域や団体の間でだけ使える「地域通貨」というお金のことです。

 また「金利というのは、おかしくないか?」という疑問や、シルビオ・ゲゼルという経済学者の名前も知られるようになりました。そしてまたさらに驚いたことには、エンデの作品である、時間どろぼうと人間の女の子の戦いの物語「モモ」は、本当は経済のことを意識して書かれたお話だということも、知られるようになりました。

 これだけでも普通は、頭の中がいっぱいになってしまって、おでこに大きなクエスチョン・マークが浮かんでしまいそうな内容です。おまけに私たちが今までまったく疑問を持つこともなく使っていたお金とは、まったく常識はずれなお金が登場してきます。

 「エンデの遺言」はテレビで放送されて、たくさんの人に知られる機会を得ましたが、遺言を受け止めた普通の人たちのほとんどは、「何が何だか、わかったような、わからないような?」という状態になりました。

それで今だに、現実的には「世の中の少しの人しか知らないお話」となっています。

(資料:「エンデの遺言」NHK出版)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

001.「エンデの遺言」という不思議なお話

 「エンデの遺言」については、その存在を知っている人も多いでしょう。

 でもそれならば、「エンデの遺言」とは、いったいどういうことなのか、説明できる人はどれだけいるでしょう?

 ほとんどの人は、自分の言葉では説明できないと思います。そしてそれは当然です。なぜならエンデは、決して何かをはっきり断言したり、具体的ですじみちのたった説明はしていないからです。

 「エンデの遺言」は、まるでエンデのファンタジーの世界のように、いろいろなことがぼんやりと、断片的に、まとまることなく伝えられています。エンデの話が断片的なので、その話を聞いた方も、その断片から一部分だけを推測し、論理的な説明を考えて伝えることしかできません。そうするとせっかく縁あって「遺言」を聞いた方も、「遺言はちゃんと聞こえたものの、わかったような。わからないような?」となってしまい、エンデの遺言を実行することができません。

 「エンデの遺言」は、まるでエンデが遺した、人類にたいする大きななぞなぞのようです。遺言そのものが、まるでファンタジーの作品のようなのです。

 「エンデの遺言」は、私たちが生きている世界の経済について語ったものでした。エンデは私たちが生きている世界のことを心配したのです。このままでは私たちの世界に住んでいる未来の子どもたちは、とんでもない世界に住むことになってしまうと、エンデは地球の未来を気にしていました。そしてそうならないために、「私たちの社会の経済というものは、特に『お金』というものは、何かおかしくないか?」と、私たちの注意を促すように知らせてゆきました。それが「エンデの遺言」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)