企業について考える

「企業の心」が見える時

 6月10日のことでした。

 

 ニュースを見ていたら、なんとなくですが、「企業の心」とでもいうのでしょうか。tv

 

 そうしたものを感じさせられたニュースが2件ありました。

 

 あいにく、感じられたのは、あまり気持ちの良い心ではありません。

 

 どちらかと言えば、残念な感じの「心」です。rain

 

 1件目のニュースは、マイクロソフト社によるウィンドウズ10のアップグレードのことでした。pc

 

 自分のパソコンが、半ば強制的にアップグレードされてしまったために、使いにくくなってしまったとか。

 

あるいは、それまで使っていたソフトウェアが使えなくなってしまったなど。

 

中にはパソコンを修理に出さなくてはいけなくなった人もいるそうです。

 

(ウィンドウズ10は、アップグレードについて予告する表示が一定時間表示されますが、表示中に可否を返答しないと、自動的にアップグレードを始めてしまうそうです。ユーザーとしては、「パソコンからちょっと目を離したすきに、勝手にアップグレードされてしまった」という感覚になります。)

 

 このことについての同社の返答は、「ユーザーのパソコンのセキュリティのため」というものでした。

 

 たしかにそういう事情はあるかもしれません。

 

 でも同時に、自分の意思に反してアップグレードされてしまったというユーザーは、たしかに不便と怒りを感じているわけです。

 

 中には、修理代を請求したいと考える人だって、いるでしょう。

 

 そのあたりのユーザーの心情については、配慮があってもいいはずです。

 

 この出来事には、ひとつの企業が持っている、「ユーザーの気持ち」に対する価値観が表れているように思いました。

 

 「企業の心」と言ってもいいのかもしれません。

 もう1件のニュースは、スイスの時計メーカーであるスウォッチ社のことでした。

 

 はじまりは日本に今でもある、機械時計(ぜんまい式の時計)の話題でした。

 

 この機械時計というものは、電池式の時計と違って、きちんと修理をしていれば、ずいぶん長く使えるそうです。(100年は使えるという話もあるようです。)shine

 ところが最近、この機械時計の修理が、部品の供給不足のためにできなくなってきているというのです。

 

 原因はスイスのスウォッチ社による、エタ社という部品メーカーの買収でした。

 

 スウォッチ社はエタ社を買収する際に、同社以外への部品の供給を停止させたのです。thunder

 

 そのために、それまでエタ社の部品によって修理されていた機械時計は部品の調達ができなくなり、修理ができなくなっているのだそうです。

 

 この件は、品物が「時計」という、なんとなく「生命」を感じさせる品物であるだけに、残念に思えることでした。

 

 見ていて思ったのですが、結果として起こっていることは、日本のあちらこちらで、機械時計の修理ができなくなっている、ということです。

 

 部品の調達が難しいのであれば、これからたくさんの機械時計が、その生命を終わらせていくのかもしれません。

 

 スウォッチ社の判断は、資本主義社会の企業としては、合理的な判断と言えるのでしょう。

 でもその判断に、「あまりにも、夢がない」という気持ちを感じてしまうのは、私だけでしょうか?

 

(もちろん、企業に「夢」など必要ないのかもしれませんが…。)

 

 これもまた、企業の価値観が示された例だと思います。

 

 その企業が何を大切に考えているのかという「企業の価値観」が、行動によって表れているのだと思います。

 「企業の心」というべきものを、感じさせられた2件でした。

 

追記:企業の行動に対して、残念に思える行動があるということは、同時に世の中には企業の行動で、素晴らしいと思える行動もあるということです。そういう行動は、おそらく、世の中の目立たないところに、たくさんあるような気がします。

shine(^^)shine

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企業は、公共事業から利益を出してはいけないと思います。

 昨日、テレビを見ていたら、戦後の政治について放送していました。tv

 

 なんとなく、かなり前に経済学入門の授業で聞いた、ある先生のお話を思い出しました。

 

 うろ覚えですが、だいたい次のようなことだったと記憶しています。

 

 世界大恐慌の時にケインズが、「政府が赤字国債を発行して公共事業をするべき」と言ったのは、「不況の時には」という、状況の限定がついていたのだそうです。

 

 ところが日本の自民党は、不況でも好況でも関係なく公共事業ばかりしているので、先生のお話では、「自民党は、ケインズの言葉を自分たちに都合良く利用している」というのです。sweat01

 

 「あれでは、財政赤字が膨らむのは当然だ。ケインズは好況の時にまで、公共事業をしようとは言っていない!」というわけです。sign01

 

 その後、ケインズの限定について私はまだ、自分で確かめたわけではありません。

 

でもたしかに、昨晩の番組にもありましたが、日本の自民党は道路工事などの、公共事業をたくさんしてきたようです。

 

 どうもこの公共事業というのは、自民党と企業にとっては、大変「楽しいこと(美味しいこと?)」であるようなのです。

 

 ところでこの公共事業ですが、私は株式会社という仕組みを理解した時期から、ある考えを持つようになりました。

 

 それは、「公共事業を請け負った企業は、その事業からは利益を出してはいけない」というものです。thunder

(また「暴論」かしら?)(^^;)sweat01

 

公共事業を請け負う企業が、その事業から大きな利益を出して、株主に配当を出すなどということは、とんでもないことだと思うのです。

 

 公共事業は、私的な企業の利益のために行われるものではなく、国や自治体のために行われるべきものです。

 

 そこに利益を期待されて、公共事業を請け負われてしまうようでは、納税者はたまったものではありません。

 

 それでは利益の分は、納税を経由した、国や自治体から企業へのお金の移転ではないかと思います。

 

 公共事業については、それを請け負った企業は、「その事業からは、大きな利益を出してはいけない」という、決まりを作るべき。

 

 国や自治体が企業に払うのは、その企業がその事業において支出した実費(人件費は、きちんと支払う。)と、ある程度の利益として。

 その代わりに、税金を負けてあげるとか…。

 

 あるいは、もしもそうすると、公共事業を請け負う企業がなくなると言うのであれば、利益を出す場合でも、実際に企業が得た利益の金額は納税者に公開するべきでは?

 

 公共事業を、企業にとっての「美味しい話」にしてしまうと、企業と政治家の癒着が起こりやすくなり、税金が無駄遣いされやすくなると思います。sweat01

 

 企業は大きな利益を得ようとして、とにかく公共事業を望むかも知れません。dollar

 

 政治家は企業を喜ばせるために、本来は必要のない公共事業をしようとするかも知れません。chair

 

 そうすると、国や自治体が不要な公共事業を計画してしまう可能性が出てきます。

 

 その結果、税金が、本来は必要ない公共事業のために、無駄使いされてしまうかも知れません。sweat01

 

 公共事業というものが、企業にとって美味しい話でなくなれば、利益が目的の企業は公共事業から離れていくはずです。

 

 国や自治体はあとに残ってくれる企業の中から、良心的な企業を選んで、公共事業をまかせればいいと思います。shine

 

 もちろん納税者としては、できるだけ良心的な企業におまかせしたいものです。note

(*^^*)

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歴史の読み方、語り方

「歴史に学ぶ会計の『なぜ?: ―アメリカ会計史入門」(トーマス・A・キング著、友岡賛 翻訳)という本を読んでいたら、印象的な記述に出会いました。

 

 ただし、著者そのものの文章ではありません。著者が文中で、E.H. Carr”What Is History”から引用している部分です。

歴史に学ぶ会計の「なぜ?」: ―アメリカ会計史入門

 引用始め

 歴史は物語であり、物語はすべて終わることがない。歴史家たちは果てしない事実の大海から選択しなければならないが、そこにはごく僅かしか重要なものはないようにみえ、選択は著者が重要性を認めることによってのみ行われる。

 
引用終わり

 

私はこの時まで、E.H.カーのこの言葉を知りませんでした。

 

でも、たしかに歴史というものは、そういうものかもしれないと思いました。

 

 歴史というのはおそらく海の上の波のように、次々と起こり続けている出来事の中から、その人の意識が止まった出来事を拾い出し、つづっていくものなのでしょう。

 

 ある人にとっては、ぜひとも取り上げておくべきことが、別の人にはそうではない。

 

 そういうことだって、あるかも知れません。

 

 過去を見る歴史というものが、そうした選択によってつづられる物語であるならば、そこには歴史を見る人の主観が入ります。

 

 自然と、その人の価値観も入るでしょう。shine

 その人が過去の出来事や人間の行動に、どういう場面で目が止まり、どういう場面で、たいしたことではないと感じたか?

 

 価値観の織りこまれない歴史は、年表の暗記と同じで退屈です。

 

 読み手には、その出来事の意味や、後世への影響がわかりません。

 

 だから、出来事の語り手の意味付けというものは、聞き手にとっては重要です。

 

 ひとつの時代を切り取っても、語り手の選択がつまらないものであれば、歴史は色褪せた冴えないものとなるかもしれません。

 
その反対に、語り手の選択が冴えていれば、同じ時代でもまったく違う一面が見えてくるのかもしれません。shine

 

もちろんそれは、読み手の価値観にも言えることですが…。

 

 そのようなことを考えていたら別の本で、これもまた印象的な歴史の記述に出会いました。

 

 「経営はだれのものか 協働する株主による企業統治再生」(加護野忠男著)という本です。

 

 この本は企業統治のあり方について、はじめにふたつの企業観の立場を示し、歴史をとおした実情と、現在の日本が向き合っている状況の解決を探っています。

 

 その第一章はおもにヨーロッパ、米国、日本の、企業の在り方と思想の歴史です。

 

 この歴史の部分ですが、「4.日本における会社の歴史と会社統治についての思想の変遷」というあたりは、とても気持ちの良い記述でした。

 

 ここでは明治時代の香蘭社から戦後までの、日本の株式会社の歴史が、ほんの8ページの間で、さらりと語られます。

 

 はじめは、渋沢栄一の「論語と算盤」の思想。

 

そして、会社設立ブームによる拝金主義の風潮の中で、その反動として現れてきた社会的使命を掲げる企業家たち。

 

 拝金主義を排除するために、上場を忌避した出光佐三。

 
お金持ちの浄財を集めて、学校、病院を設立し、生活協同組合設立を支援した甲南学園の創設者、平尾釟三郎。

 
人本主義経営を標榜し、労働者の作業環境の改善に取り組んだ鐘紡の武藤山治など。

 
日本的経営の思想は、すでにもうこの時代に生まれていて、実践が始まっていたようなのです。shine

 

この時代は、株主の要求する高配当に企業経営者が苦しめられた時代と聞いています。

 

でもその一方で、そこにしっかりと反旗を掲げ、自らの信じる経営を貫いた経営者の存在は、やはり歴史の一部として拾っておくべきことではないでしょうか?

 

この部分は本当にあっさりとした記述ですが、著者の価値観が歴史という物語を、大きな、動きのある物語にしていると思うのです。

 

それは、揺れ動く拝金主義という波間に立ち上がり、自らを貫いた経営者たちが次々とスポットライトに現れる、鮮烈な印象を伝えてくるのです。shine

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企業の、新しい資金調達の方法の可能性♪

(ご注意!:この記事は、ひとつ前の記事をお読みいただいてから、お読みいただけますとうれしいです。)note

 

 ひとつ前の記事で取り上げた3つの情報から、企業の資金調達の方法について、次のような可能性を考えてみました。

 

 「リストラなしの『年輪経営』」の伊那食品工業株式会社が、経営者のビジョンに沿った経営ができるのは、「株式市場からの資金調達をしない」という決断をしているからです。



 伊那食品工業の経営は、以前にこのブログでご紹介した、甲南大学の加護野忠男先生による企業観の分類では企業制度説です。

 

 伊那食品工業株式会社というのは、投資家のためにお金を儲けてあげる企業ではなくて、社会貢献を目的とした企業です。shine

 

 同社がもしも株式市場から資金調達をしてしまったら、その経営を維持することは難しくなるはずです。

 

 というのは、株式市場から株を買おうとする投資家は、必ずしも社会貢献をする企業を応援したいというわけではないからです。

 

 むしろ、加護野忠男先生の分類による、企業用具説の立場に立つ投資家の方が多いでしょう。

 

★企業用具説と企業制度説については、よろしければ、こちらの記事もご覧ください。

http://go-go-lemming.cocolog-nifty.com/okanetojikan/2013/03/post-8500.html

 

 世の中では、それほど注目されていないことかも知れませんが、伊那食品工業が株式上場をしないという決断をしたということは、とても重要なポイントだと思います。

 

 ところで同時に伊那食品工業は、その決断によって、今度は大量の資金を集める方法を失ったことになります。

 

 というのは、従来であれば企業の資金調達というのは、銀行からの融資、または株式市場からというのが、一般的な考え方だったからです。

 

 そこでふと、考えてみたのですが…。shine

 

 企業の資金集めについて、次のような方法はできないものかと考えてみました。flair

 具体的に書きますと。

 

1、資金を集めたい企業は、その資金で何をしたいのかを、インターネット上に公開し、資金協力者を公募する。

 

2、資金協力の形は、出資ではなく融資とする。その時に5年また10年という感じで融資の期限を明示して、融資者と企業は個別に資金協力の契約を結び、資金を受け取る。

 

融資者が融資を中断したい場合は、個別に契約の解除をすることとして、企業が知らないところでの、権利の譲渡は行わない。

 

3、金利については、必ずしも現金での支払いでなくても良いものとする。例えばその企業の商品、あるいは家庭で使える物品、それからレジャーなどの各種サービスなども良し♪

 

ちょうど、今のふるさと納税の景品のような感じでしょうか。お米なども良いと思いますし、それからいろいろな商品が選べるという形に発展してもいいと思います。これが、配当にあたります。

 

4、株主優待については、3とほとんど区別がなくなってしまいました。(笑)

 

5、そして、融資をしてくれた人には、企業からの「資金協力証明書shine」のようなものを発行してあげて、その企業に関する何らかの特典を与えてあげる。

 

例えば経営者による講演会や事業報告会に、参加できるなど。また、工場を見学させてもらえるとか。あるいは、社会貢献活動の心温まるエピソードを、報告してもらえるなど。heart

 

 アイデアとしては、以上です。shine

 

 私が何を目的としてこのような方法を考えたのか、わかるでしょうか?

 

 私は、株式市場から資金調達をすることによって起こる、投機的株主による経営への介入を排除しようと考えたのです。

 

 そしてもうひとつは、資金協力者にとっての資金協力のうまみである金利や配当を、お金ではなく、実体のある財やサービスでも良いということにして、金利や配当の支払いが企業の経営の負担となることを避けようと考えました。

 

 資本主義社会では、お金を調達するということは、とても難しいものですが、その代わり、実体のある財やサービスは、(需要があるかどうかという問題はあるものの、)比較的調達しやすいはずです。

 

 ちなみに、融資者が融資に応じる動機は、「自分は、社会貢献をする企業に資金協力をしている」という「気持ちの良さshine」です。

 

 そして、融資者と企業の関係は「信頼」です。shine

 

融資者は企業をとおして、自分の善意を社会に届けてもらい、経営者と従業員はその手腕を持って、融資者の善意を社会に現わしていくのです。

 

この発想は、手元の情報がたまたま伊那食品工業だったからこそ、思いつけたものだとは思いますが、悪くない発想だと(自分では)思います♪

 

shine*^^*shine

★企業用具説と企業制度説については、こちらの本にも書かれてあります。

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みほれみブレンド?(企業の資金調達に関して)

(ご注意!:この記事は、次の記事とセットでお読みいただけますと、うれしいです♪)

 

 現在、私の手元に3つの情報が集まってきました。

 

 ひとつめの情報は、たまたま本屋さんで手に取った本の中の、ある人のエピソードです。

 

 残念ながら、本のタイトルは忘れてしまいました。(新刊のようでしたので、またどこかで出会えると思います。)

 

 そのエピソードというのは…。

 

 海外旅行をしていたら、ピストル強盗にあってしまい、全財産を失ってしまったが、フェイスブックか何かで事情を説明して、ネット上で資金協力を募ったところ、いろいろな人がお金を振り込んでくれた、ということです。heart

 
その人はそのおかげで、旅を続けられるようになったというお話でした。shine

 

 そして、ふたつめの情報は、ひとつ前の記事でご紹介した「リストラなしの『年輪経営』」。

 

 キーワードは、株式の「非上場」です。

 

 そしてさらに、みっつめの情報は…。

 

 以前に読みかけてあった「経営はだれのものか」(加護野忠男著)です。

 

 この中の、「第4章 長期連帯株主を求めて」という部分。


(えっ、もう私が何を発想したか、わかってしまいましたか?。笑)

 

 普通であれば、まったくバラバラで、これといった関連のなさそうな情報ではないかと思いますが、私の手元にくると…。

 

 ほら、このとおり!shineshineshine

 

\(*0*)/sun

 

 というわけで、それでは次の記事をご覧ください!up

 

 いや、荒唐無稽と言えば、いつでもそのとおりなのですが…。(笑)

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正義は資本に勝てるのか?(枯葉剤裁判の行方を思う)

 ふと気がついたことですが、「資本主義社会では、正義は資本にかなわないのだ」と思いました。

 

 どういうことかと言いますと…。

 

 以前にこのブログでにとりあげましたが、ヴェトナムの枯葉剤を生産した企業

 

 それらの企業は、枯葉剤によって引き起こされた結果を考えれば、どう見ても人道的に問題があったと言わざるをえません。

 

 個人がこのような行動をとれば、どう考えても罪に問われます。

 

それならば企業だって、人道的な罪という点から処罰が合っても当然です。thunder

 
でも、どうしてか、企業は罪には問われません。

 

 枯葉剤を生産した企業は、今でも存続しています。typhoon

 

 そしてまた、別の話にはなりますが、クラスター爆弾を作っている企業というのも、存在しています。

 

 おまけに「ただ存在している」というだけでなく、こちらは投資の対象にもなっていて、株主に利益ももたらしているのです。dollar

 

*リンク先、右クリックでご参照下さい。 

http://jp.ibtimes.com/articles/408950

 資本主義社会では、経営を理由に人道的な問題を引き起こす企業でも、なかなか社会から処罰を受けないのです。

 
それどころか、人道的な罪を犯している企業でさえ、投資の対象として、投資家から歓迎されてしまいます。bell

 
身近なところでは、大地を広範囲にわたって放射能で汚染した企業などは、社会から処罰を受けても当然です。

 

 ところが、処罰はありません。

 

 処罰どころか、わざわざ税金で、国民に助けられている始末です。

 
税金を使うと言えば、大きく破たんする金融機関などもそうでしょう。

 

 世の中に迷惑をかけた企業であれば、処罰を受けるべき。

 

 企業が世の中に迷惑をかける時は、当然、個人の過失の場合よりも、規模が大きくなります。

 

 それなのに処罰という点では、企業の過失は、個人の過失と比べてあまりにも軽くすまされ、さらには国によって救済さえされてしまうのです。

 

 いったいどうして、そうなってしまうのだろうか?と思いますが…。

 

 でも、よく考えてみると、その理由というのは結局、企業の処罰を決めるべき人たちが、同時に、どこかの企業の株主でもあり得るから、という可能性は考えられないでしょうか?shadow

 
もしも、企業の処罰を決めるべき人たちが、結局「個人的には、株主でもあり得る」としたら、自分が株を持っている企業の処罰など、まずあり得ません。

 

 株主であれば、処罰を考えるどころか、なんとかしてその企業の経営を続けさせ、自分のところに来る配当が減らないように、あるいは、株価は高いままでと行動するのが当然でしょう。

 

 政治家であろうが、なかろうが、投資家という立場になれば、武器を生産している企業も、世の中の人々を幸せにする製品を生産する企業も、それほど区別はありません。

 

 投資の世界では、配当金や株を売った時に出る利益は、どの企業からのものであっても、結局ただの利益であって、そこには区別がないからです。dollar

 

 株式会社という仕組みがあるために、資本主義社会では、社会や人間に悪影響を与える企業までもが、社会からの処罰を免れやすくなるということは、あり得ないこととは言えないと思います。

 
でも、やはり、個人の行動では悪いとされる行動が、企業においては容認されるというのは、受け入れ難い話です。

 

 資本主義社会では、正義は資本の意向に勝てないのでしょうか?

 

 ちなみに枯葉剤に関しては、フランスで被害者の訴えによる裁判が始まるそうです。

 

 「資本 対 人権」の裁判として、行方がとても気になります。libra

 

 先の理由から、資本主義社会では、正義は資本の意向に「勝ちにくい」と私は考えます。

 

 でも、そこを踏まえても、原告側の弁護士さんには、ぜひともがんばってほしい!と思います。

 
現代の資本主義社会では、資本の増殖を完全に否定できる理論は、まだ育っていません。

 

 裁判の行方は世論にかかっているそうです。

 

 たしかに世論には、企業に制裁を加える力があるかも知れません。flair

 
行方を見守りたいと思います。

 

*リンク先は、枯葉剤裁判の記事です。

http://synodos.jp/international/13841

 

 

 

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枯葉剤と補聴器

 以前にあるテレビ番組で、日本のある補聴器メーカーの活躍を知りました。tv

 

そのメーカーは、ベトナムの先天性難聴の子どもたちのために、補聴器を売り込んでいこうとしていました。

 

番組の中で放送されていた、音が聞こえるようになった男の子の映像は、見ていても本当にうれしいものでした。heart01

 

人を幸せにする商品を生産する、日本の誇りとなるような企業だと思います。shine

 

この日の番組では、ほかにも海外で、その土地の人々の健康のために活躍している企業が紹介され、大変気持ち良く見ていられる放送でした。

 

ただ、ほんの少しだけ。

 

この日の放送で、まったく対照的な事実も知りました。

 

(番組の中で紹介された企業の活動が素晴らしいことには、まったく変わりはありません。まったく、別の企業に関する話です。)

 

ベトナムの先天性難聴の子どもたちというのは、悪名高き枯葉剤の影響であると考えられているのです。

 

ここには本当にやり切れない、資本主義社会の構造上の欠陥を感じます。

 

資本主義社会では、番組の中で取り上げられたような、人を幸せに導く企業も存在していれば、それと同時に、人を傷つけるような製品を生産する企業も存在し得るのです。

 
そこには、会計、そして投資という行為の存在が関係していると思います。

 

企業というものを、財務諸表を使って判断しようとする時に、その企業の実体である、「その企業は何を生産しているのか」という重要な問題がきれいに切り離されてしまい、その結果、企業の状態は、善も悪もないただの数字の羅列に変わってしまいます。

 

その先は、人間を幸せにする商品を生産している企業も、人間を傷つける製品を作っている企業もまったく同等に扱われ、企業の価値というものが、投資家にとって都合の良い企業であるかどうかという点からだけで、判断されてしまうのです。

 

 枯葉剤を生産した企業は、現在でも存続し、利益を上げています。

 

 最近思うのですが、こうした資本主義社会の構造上の欠陥というものは、もしかしたら会計という行為によって、企業の姿が、ただの金額で現された財務諸表に変換されてしまうことによって、起こっているのではないかと感じるようになりました。

 

(注意:ここで言う「会計」というのは、財務諸表を作成する行為という意味です。)

 

 それは、会計という行為がいけないと言うのではありません。

 

 会計によって写し出された財務諸表の世界というものが、企業の実体を写し出そうと試みた結果の、数字だけの世界であり、そして、その数字というものは、人間が生産物の交換用に使っているお金の金額であり、さらにまた、そこに投資という活動(お金を出資して、より多くのお金を得る行為)が肯定されているということが、おもな問題なのではないかと思います。

 

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「企業について考える」というカテゴリー

 新しく「企業について考える」というカテゴリーを作りました。sun

 

 ひとつ前の記事は、このカテゴリーに入れておきます♪

 

shine*^^*shine

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企業と美人投票のランキング

 ある企業が株式市場における株価指数に選出されるため、「奇策」と言われるほどの経営判断をしたそうです。

 

 今後一定期間のすべての利益を株主への配当にまわすなどして、手元の資金を減らすことにより、指標を引き上げることにしたのだとか。

 

 その企業の場合はちょっとしたいきさつがあって、今回はどうしてもその指数に選ばれたかったのだそうです。

 

 その企業の経営者としては、前回その指数に選ばれなかったことが、とても悔しかったとか。

 

 ビジネス・ニュースを見ているとこうした経営者が、株式市場における評価をまるで自分の成績表であるかのように、気にしているという場面をよく見かけます。

 

 「自分の経営する会社の株の、株式市場における評価が高くない」ということは、いったいどのぐらいその企業にとって、良くない影響を与えるのか?

 

 知識の少ない私としては「買収をかけられた時に、大変だから?」という理由ぐらいしか思いつきません。

 

 あるいは経営者が、株主からクビにされてしまうから?

 

 何にしても、モノ作りを本業としている企業の経営者が、株式市場における評価をそこまで気にする必要はあるのだろうか?と、不思議に思うのです。

 

 私は、株式市場から企業に与えられる評価と、実際の経営者の経営の能力は、まったく別の話ではないかと考えます。

 

 株式市場が企業を見る時の基準は、「その会社の株を買えば、自分がどれだけ儲かるか」という点です。dollar

 

 その企業の経営者がどれほどセンスの良い組織の運営を行い、日々起こり続ける諸問題を上手に解決し、世の中の役に立つ新しい製品や手法を開発し、高度な経営判断をしているか。shine

 株式市場にとっては、そのようなことはそれほど重要なことではありません。

 

 株式市場にとっては、自分の財産を増やしてくれるかどうかが関心の対象です。

 

 株式市場にとっては、企業とは「自分を儲けさせてくれる道具」にすぎません。

 

 その企業がどんなに良い製品を作ろうが、自分を儲けさせてくれる可能性が低ければ、株式市場にとっての価値は下がります。

 

 私は立派な生産を行っている企業の経営者が、株式市場における評価を、まるで自分の成績表であるかのように気にするという現象を、不思議に思うのです。

 

 「経営者という人たちは男性が多いから、誰かに順位をつけられると、どうしても上位に入りたくなってしまうからなのかな?」などと、思います。horse

 

 「経営者が株式市場における評価を上げたくて、それを目的とした特別な行動をとる」ということについて、(この先はちょっと品のない例えになってしまいますが、)私は次のようなことではないかと思うのです。

 

 たとえばある女性がいて、その女性は美しいだけでなく人間性においても、職業的な能力においても優れているとする。

 

 だけど男性たちからの人気投票のランキングでは、上位に入れない。

 

 そこでその女性が男性たちの注目をひくために、大胆に性的な魅力をアピールするような服装をしてみたら?heart04

 

 その結果、その女性は人気投票で上位に入れるかも知れません。

 

 でもそれは、決してその女性の人間性や能力が評価された結果というわけではない。

 

 男性たちは、その女性がアピールした性的な魅力を評価しただけです。

 

 企業が、株式市場から「投資の対象として魅力がある」と判断されるということは、投資家にとっての「カネ儲けの道具としての、魅力がある」という結論に過ぎません。

 

 立派なモノ作りをしている企業が、どうしてわざわざそのような指数に評価されたくて、企業にとって大切な資金を、大胆に株主に放出してしまうのか?

 

 その行動は私には、かえって企業が自社の価値を、自ら貶める行動であるかのように思えるのです。

 その企業が誠実に立派なモノ作りをしているであれば、その企業が投資家の金儲けの道具として優れているかどうかなどに揺らされずに、堂々と誇りを持って経営を続けてゆけばいいではないかと思います。shine

 

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